内藤理恵子『誰も教えてくれなかった死の哲学入門』と私の死生観について
パンデミックによって日々の感染者、死亡者の数を目にし、耳にする機会が増えた。また、アール・ノート(『コロナ時代の僕ら』参照)を限りなく0に近づけるべく不要不急の外出を控えて一人で過ごす時間が増えた。
この二つの要因によって我々は必然的に死について考えているのではないかと思う。
そんな背景もあり手に取った #買ってよかった2020 としてタイトルの本を紹介したい。
誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門 虎哲さんの感想 - 読書メーター https://t.co/VTD9ysF7Rg
— 内藤理恵子2077 (@drjoro) 2021年1月1日
誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門 虎哲さんの感想 - 読書メーター (bookmeter.com)
2021年1冊目にして、2021年ベスト本か?「死についての博物誌」を目指したと著者が「はじめに」で語る通り、死について考え抜いた人を総称して「哲学者」と呼び、彼らの足跡や考え、当時の背景、我々の考え方をはじめ、時にサブカルチャーに至る後世への影響を親しみやすい文体で軽やかに論じる。「哲学者」として難解とされるハイデガーやヴィトゲンシュタインが出てくるため構えるが、哲学的素地がなくても理解出来る。イラストやたとえが読者の理解を助けるからだ。この本を読むまでほとんど知らなかったヤスパースの考え方に最も共感。
「我々は必然的に死について考えている」と述べた。そんな状況において著者は哲学教育の不在を指摘する。
なぜ哲学なのか?哲学は根本原理、もしくは原理の近似値を描くことのできる唯一の学問ですが、日本では教育現場でもあまりあまり取り上げられることはなく、せいぜい中学・高校の倫理社会の授業くらいではないでしょうか。あとは、大学の教養課程で講義に出るか、数少ない哲学科のある大学に進学するか、独学で哲学書を読むか……。
哲学的な思考の基礎がないまま、不安や苦しみの解消を他者に依存に依存し、その欲求が満たされないと嘆いているのが、現代の日本の「死」に関する思想状況であると思います。さらには現代日本の異様な自殺率の高さ、特に世界的に見ても特異な自殺率の高さは、哲学教育の不在となんらかの関係があるとも思います。
(「はじめに」より引用、なお「倫理社会」は原文ママ)
教育者の方に
— 内藤理恵子2077 (@drjoro) 2021年1月1日
お読みいただき
光栄です!
今後ともよろしくお願いします✨
著者内藤先生に頂いたこの言葉について若干の違和感があったが、先生がこの本を届けたい人の中に教育者がいたのではないかということに気がついた。
私は一介の国語科教員であり、生とともに真正面から哲学に取り組むような殊勝さはない。ただ授業を通じ、生徒が死に触れるのは国語科なのではないかと思う。教材を列挙すれば、新美南吉「ごんぎつね」・井上ひさし「握手」・森鴎外「高瀬舟」・志賀直哉「城の崎にて」・夏目漱石「こころ」がそれにあたる。
下の本は生徒が言葉として死に触れる国語科としての在り方に大きな示唆を与えるのではないかと期待している。
また国語科と哲学教育については元開成中・高、現筑波大学附属駒場中・高の森先生による論考がある。私もこのような方向の国語科教育を探究したいと思っている。
私も先生の語る多くの日本人にもれず「哲学的な思考の基礎がな」く、高校時代の現代社会(今考えても優れた先生であったが、政治経済の方面に強い印象があり、倫理方面の授業の記憶はない)や「大学の教養課程」で履修して「倫理学概説」、及びその後直接哲学書を読むでもなく読んでいて心地のいい入門書の類いを数冊読む程度である。
「哲学的素地がなくても理解出来る」という点については内藤先生が書いた以下の記事を見て頂ければ理解できると思う。
『誰も教えてくれなかった「死」の哲学入門』幻のあとがき|日本実業出版社|note
実際、この本にはあとがきがなく、あたかもこの本がサルトルのいうところの「偶然」の死を迎え、突然死について考える終わりなき哲学の道へ読者を放り出すような印象を受ける。
中身については読んで頂くに如くはないが、私が最も共感したヤスパースの考えを紹介したい。「人間の死後世界は「神の領域である」」としつつも、哲学することでその途方もない距離に少しずつ近づくというものだ。内藤先生はそのさまを「鳥人間コンテスト」にたとえている。ぜひ確認されたい。
またヤスパースは神の存在証明として「暗号」という興味深い概念を提示している。
たとえば、昨日こんなことがあった。
『誰も教えてくれなかった死の哲学入門』を読み終えてTwitterを開いた時、下のツイートが目に飛び込んだ。
【今日の名言】正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。そして、死んでいることは、かれらにとっては、誰にもまして、少しも恐ろしくないのである。
— 岩波書店 (@Iwanamishoten) 2021年1月1日
――プラトン/岩田靖夫訳『パイドン――魂の不死について』 https://t.co/sZebvtqcfl
この出来事から私はこの本を読んだことが人生の一つの契機であると伝える神の「暗号」を読みとるのだ。←
私の死生観について
私はこれまでこの本の扱う哲学や宗教からよりも、言葉や文学から影響を受けてきた。(無論後者に前者の影響はあるが)
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」(『十訓抄』)という言葉や、ディズニー映画『リメンバー・ミー』に描かれているような「人は二度死ぬ」という死生観である。
端的に言えば、肉体的にも精神的にも死の克服は不可能であるとし、たとえ肉体がなくなっても、何らかの形で少しでも生きた証を残すことが自分の死への未練を軽減させることにつながるというものである。
ハイデガーの死生観に、死後の視点を加えたものだ。サルトルのいう「偶然」に支配された死をあえて視野の外に置いている感がある。「いつ死ぬか」は語りえぬ神の領域だからだ。
このブログで本を書きたいという願望を述べているのもこの死生観によるところが大きいのではないかと思う。
ただしいうまでもなく世に問うに値する問題意識がない限り、本を書いてもしょうがない。私の好きな著者は問題意識がしっかりしている。本を書くこと自体を目的とせず、問題意識をしっかりと育てていく必要がある。それがじわじわと縁を繋ぎ、結果として出版にこぎつけるというのが1番ではないかと思う。
広告はパッと影響あるが
— 内藤理恵子2077 (@drjoro) 2021年1月2日
長期的に見ると
読者さんの
口コミのほうが
じわじわとした
影響力あるように
なってきたと思う、最近。
これは私含めて
知名度があまりない
書き手にとって追い風かもしれん
このブログもそうした口コミの一つになれば幸いである。