虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

探究を探究する高校教師たち―第16回高大連携教育フォーラム(前編)

ご依頼を頂けるのは有り難いこと。参加したイベントのまとめを行うことは自分が何を学んだかをメタ認知し、学び足りない部分を浮き上がらせることにも役に立つ。

フォーラムのタイトルは

いま育成すべき力は何かをともに考えるⅡ―高等学校・大学の役割―

~次期高等学校学習指導要領と高大接続の本質~

である。実におなかいっぱいなタイトルで高等学校に求められることの多さや、改革の波をいかに乗りこなすか大学とともに考えていくことの重要性が感じられる。

 

趣旨説明(大学コンソーシアム京都高大連携推進室・大谷大学 荒瀬克己先生)

 高大接続については「大学入学共通テスト」に関心が集中しているが、「高大接続改革」は「高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜を一体的に改革することにより高校生・大学生に必要となる資質・能力を身に付けさせるため」であることを強調なさった。

 またキャリア教育は仕事のイメージが強いが、中央教育審議会答申(2011年1月)

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2011/02/01/1301878_1_1.pdf

の16-17頁の「職業教育」「キャリア教育」「キャリア」の定義を引用し、キャリア教育の意味やそれを学校で行う意義を再確認して下さったのは私にとっては有り難かった。大学入学以前の答申はほとんど目を通せていないが貴重な考えがある場合が多い。

 

新学習指導要領は何を目指すのか~習得・活用・探究における「主体的・対話的で深い学び」~(東京大学教育学研究科 市川伸一先生)

 まず先生の最初の職場が我が大学だったことに驚いた。まあ世間的には首都圏国公立大学の一角という認識であり、最寄駅から遠いことを除けば非常にいい大学だと思っている。どの大学もそうかと思うが調べてみると「おお!」と驚くビッグネームが在籍していることが多い。

 まず新学習指導要領は基本的に現行指導要領の流れを汲んでおり、生きる力/習得・活用・探究/教授と活動のバランスといったキーワードは継承している。より強調・拡張するためのキーワードとして社会に開かれた教育課程/教科横断的な資質・能力の育成が挙げられている。また今までの流れの実効性を高めるために教科横断的編成やPDCA、リソースの配分といったカリキュラム・マネジメント、主体的・対話的で深い学びといったアクティブ・ラーニングの視点が取り入れられている。これらはともすれば変わることにうろたえがちな教育現場を勇気づける指摘である。しかしながら、言葉を変えるほどに強調し、変化を求めていることもまた見落としてはいけないだろう。諸先輩教員に臆することなく、変えるべきところは変えるという意識の下先導する役割が新人教員の責務だろう。

 中教審とアクティブラーニングについては「特定の方を普及させるものではない」という大前提を踏まえつつ、「深い学び」と「深い理解」について紹介なさった。「深い学び」とは「深い理解、情報の精査、問題発見・解決、創造」、「深い理解」とは「知識の関連付け、一般化、活用」というキーワードがあるそう。すなわち「知識」は断片でなく構造化された深い理解を伴った知識のことを指すという。いずれにしても教科教育において「深い学び」を実現するうえで、習得・活用だけでなく探究というところに踏み込んでいかざるを得ないだろう。

 アクティブ・ラーニングの実例として探究的なアクティブ・ラーニングと習得の授業におけるアクティブ・ラーニングをそれぞれ紹介なさった。探究的なアクティブ・ラーニングとして挙げられたThinkingQuestについて存じ上げなかったので知れてよかった。中高生が子どもを対象とした学習に役立つホームページを作るコンテストだそうだ。中高生3人1組でコーチ的役割の教師も付くそう。是非国内の実践についても調べ教科への応用を図りたい。Researcher-Like Activity自体は存じ上げていたが、市川先生がご紹介なさった論文の査読やパネルディスカッションなどはうまく国語科の学習に取り入れられそうだと参考になった。習得の授業におけるアクティブ・ラーニングとして、学び合いやジグソー法、反転授業など様々に上げていたが、市川先生の説明は「教えて考えさせる授業」の理解確認、理解深化に力点があったように思う。

 「教えて考えさせる授業」は指導と問題演習のように「教える場面」と「考えさせる場面」があればよいのではなく、現場との共同研究によってある程度洗練された構成要素がある。「教師の説明」生徒自身に説明させるなど「理解確認」、理解したことを活用する難しい問いを解くなど「理解深化」そして分かったこと分からないことをメタ認知する「自己評価」である。印象的だったのが自己評価の書き方を指導すべきだと市川先生が明言したことである。何をした何が出来たという表層にとどまらない自己評価にするためには自己を振り返る視点や語彙が求められるということであろう。

  普遍的な要素を組み込んでいると思うがやはり「型」に走っているような気がしないでもない。国語科でどのような「教えて考えさせる授業」が実現できるかこの本を読んで考えたい。

教えて考えさせる中学校国語科授業づくり (中学校国語サポートBOOKS)

教えて考えさせる中学校国語科授業づくり (中学校国語サポートBOOKS)

 

  

 後半の学習法や学習観の話については体験で自覚する部分が多くまさに我が意を得たりという感じであった。認知心理学の知見に裏付けられていると知ると試す価値ありと試行錯誤の学習の面白さに使ってくれるだろうと。以下の本を読んで現在担当している生徒に勧めたいなと。それにしても中3くらいの頃に母校に講演しに来てくだされば今頃東大生の院生だったかも…なんて。笑

 

勉強法の科学――心理学から学習を探る (岩波科学ライブラリー)

勉強法の科学――心理学から学習を探る (岩波科学ライブラリー)

 
勉強法が変わる本―心理学からのアドバイス (岩波ジュニア新書)

勉強法が変わる本―心理学からのアドバイス (岩波ジュニア新書)

 

 

日本国語教育学会高等学校部会研究会@群馬大学

ということでちょっとしたまとめを。

 

「こころ」の広告文の制作・発表による主体的・創造的な読みの習得(群馬県立高崎高等学校 藤生揚亮先生)

 

大学生・社会人のための言語技術トレーニング

大学生・社会人のための言語技術トレーニング

 

 藤生先生はこの本を参考に要約指導に取り組んでいるそう。結末との関連が希薄な単語は除外し、因果関係の濃い単語だけを抽出する〈因果法〉で抜き出した5つの単語〈キーワード法〉を他人と交換して文章にまとめ要約を作成し、3人グループで1人の作成した要約を意見交換して添削して発表する形式である。

 この要約に加え、小説の広告制作を最後の言語活動に組み込んでいる。「こころ」の広告制作の計画・準備・発表・相互評価も随時学習計画に組み込んだ7時間扱いの授業である。広告制作の発表形態について指定しなかった為CM制作をしたグループが多かったそう。映像制作のハードルは非常に低くなっているのであろう。

 

hama1046.hatenablog.com

 

 この実践で得られた知見を紹介しつつ、映像制作は解釈を反映するので、それまでに行ってきた要約との関連を持たせた方が良いと思い、CMよりも要約した部分の映像化もよいのではという質問をした。藤生先生はその考えを受け入れつつ、分かりにくい文章の映像化も生徒にやらせ、それをストックしていくのが良いのではないかと仰った。

 石塚修先生は映像制作を通し、言語表現の持つ特性と映像表現の持つ特性に気づかせることも重要ではないかということを指摘した。単に映像は分かりやすく、文章は分かりにくいということを超えて言語表現の特性のより深い理解を持てるとよいのだろう。

 生徒が発表の機会によって自分の読みを作り出す創造的な読み。読みの解釈を一方的に受容する授業一辺倒からの脱却として効果的だろう。

 

探究的に学びを深める古文指導―『徒然草』を用いた授業実践―(群馬県立前橋高等学校 村岡祐介先生)

 新学習指導要領下では探究がキーワードがなる。総合的な学習のような探究のプロセスを取り入れた学びを古文指導で行うことによって生徒の学びがどのように変わるかを知ることが村岡先生の授業のねらいである。

 村岡先生は初見で文章のどこまで分かるかどこから分からないかを知るということを重視し、予習をしないような形式に変更した。また、授業は自分で課題の設定をしてグループで現代語訳を作り、グループに授業者が質問してそれを班員で相談して答え(情報の収集)、自分の課題解決に有用な情報を整理・分析し、個人で答えをまとめてそれをグループで、グループ内でよかったものはクラスの共有(表現)し、新たな課題の設定として今後古文で学んでいきたいことを生徒自身に示させるという流れだった。

 村岡先生は探究のプロセスを繰り返すことで、問いや探究の深まりが期待できることやこの形式で授業を行ったことで改めて単語や文法などの基礎の重要性に気付いたことを強調なさっていた。

 私が持った問いは以下の3つである。質疑の中で実際に探究を授業に組み込んだ村岡先生の考えるお答えを聞いてみた。

・「探究のプロセス」の組み替えについてはどのように考えているか。

「探究のプロセス」や新学習指導要領で示された国語科学習過程は必ずしもその順番でなければならないわけではなく、場合によっては組み替えることも考えられるのではという趣旨の質問である。

村岡先生はその通りであるとして、実際学習者からもそのような声があったこと、学年が進めば組み替えていくことも考えられるとの解答いただいた。

・題材の選択性についてはどのように考えているか。

教科書に採られている箇所を学ぶことも重要だが、それに加えて学習者が学ぶ題材を選ぶことがあっても良いのではないかという趣旨の質問である。全く持って自由とすると教師の教材研究が追い付かないが、「探究」という以上ある程度の制限下で学習者が題材を選ぶ自由度があってもよいのではと思ったのである。

 村岡先生は選択性の重要さを認識しつつもテスト等の実情もあり厳しく、生涯学習的な大きな学びのスパンで学習者が自ら学んでくれればとの解答を頂いた。

 テストを完全に否定するわけではないが、それによって学びが制約されてしまうこともあるのだなと考えた。探究的に学ぶ際のテスト・評価のあり方も今後求められるだろう。

・協働はもちろん大事だが、探究を突き詰めると自ずと個の学びになっていく。このことに関してはどのように考えているか。

 難しい質問であるが、協働という手段に重きを置くとダメだが、目的の達成のために協働は必要というような解答を頂いた。

 自分の質問が悪く聞きたいこととと少しずれてしまった。個の学びをどこまで許容しどのように支援できるかもまた今後考えていく必要がある。

 

  早稲田大学町田守弘先生、茨城大学鈴木一史先生は日本国語教育学会は学会だが単なる研究会だけでなく学び合う会、実践から学ぶ会だという言葉があった。高校国語科は「さざ波」で済まない大きな変化が予想される。学び合う会・実践から学ぶ会に学び大きな変化を乗り越えた実践を展開したい。

 

高等学校国語科 新科目編成とこれからの授業づくり (シリーズ国語授業づくり)

高等学校国語科 新科目編成とこれからの授業づくり (シリーズ国語授業づくり)

 

 この本のご宣伝もありました。

高等学校『国語』新学習指導要領はどうなるか―必履修科目「現代の国語」「言語文化」

 

日本語学 2018年 11 月号 [雑誌]

日本語学 2018年 11 月号 [雑誌]

 

  『日本語学』に触発されて。キャッチーな特集タイトルから記事名を拝借。特集を読んでいるときふと思い出したことがある。

 あすこまさんと初めてお会いしお話しさせていただいた時に、

はまてんさんは自身が中学と高校どちらの先生に向いていると思いますか

というような問い(ちょうど一か月ほど前のことで細かい言い回しはうろ覚え)を投げかけられ、私はその問いにどちらともつかないようなご返答をしたのだ。

 私は修士課程修了後中高一貫校で、もっと言うと母校のような中等教育学校に勤めたい。将来的に母校に勤めるうえでもプラスになるかなと。

 今でも中高どちらの教員が自分に向いているかは分からないが、先掲ツイートにあるように科目編成が変わり国語科のあり方も「さざ波」で済まない大きな変化が起こるであろう高校に勤めたい。そして出来ることなら高1「現代の国語」「言語文化」どちらかの担当を持たせたほしいという思いがある。この思いを実現すべく、なるべく自分の思いの実現するような学校を探していきたい。

 当該特集では「現代の国語」を幸田国広先生が、「言語文化」を山下直先生が担当なさっている。5/12にあった日本国語教育学会高等学校部会の研究会でもこのお二人がそれぞれの教科についての説明を担当なさっていたため、各科目の具体化の鍵を握っているのだろう。明日の高等学校部会も楽しみである。

 

高等学校国語科 新科目編成とこれからの授業づくり (シリーズ国語授業づくり)

高等学校国語科 新科目編成とこれからの授業づくり (シリーズ国語授業づくり)

 

ロカルノ先生にお勧めされたのに まだ手が出ていないこの本。執筆者の顔触れは『日本語学』特集執筆者とおおよそ重複している。

 『高等学校「現代の国語」はどうなるか』で幸田先生は過去にあった「現代国語」の登場の仕方やそれによって生じた今の課題を紹介して専門国語教育史の可能性の一端を示しつつも、学習指導要領の文言・新テストとの関係・実効性の鍵を握る教科書の問題について具体的かつ鮮やかに論を展開している。

 『「言語文化」はどのような科目か』で山下先生は現行のA系科目すなわち「現代文A」「古典A」との関連を示し、示唆を与えている。「言語文化」では、現行の「国語総合」のように内容理解の重視に重きを置き過ぎないよう、言語活動例を紹介しその性質を論じている。

 必履修科目2つの関連については月刊国語教育研究12月号小特集高山実佐先生の論文(特に30頁上段)に詳しい。

先掲ツイートの10月の全国大学国語教育学会大会においても幸田先生が指摘しており、それが正しいか否かはともかく理解しやすい関連である。国語総合においても本来は一人の授業者によって現古漢「総合」的に扱われることが理想であったが、現状はそのように授業している学校の方が少ないという。「現代の国語」「言語文化」の担当者は連携を密にとることでその効果を最大化することが出来る。「言語文化」の言語活動例のような言語活動を行う場合、「現代の国語」でその活動のやり方を学んでおく必要があると6月の南部国語の会主催国語教育研究会の高校分科会山下先生はすでに指摘なさっていた。こういう時に国立大学附属校が模範となる授業を示せるとよいのだが…。今年の東大附属公開研が楽しみである。

 

最後に

ということなので

これが今回のブログ記事のオチです。文句ははこせんさんにお願いします。笑

文法教育の可能性―現代に残る「けり」「き」を発端に

 タイムラインの流れによってこの貴重な学びを流してはいけないと思い、ここにまとめた。

発端はおそらくこのツイート。

 

 個人的に好きな考え方の持ち主クロゾフ先生。クロゾフせんせいについてははこせんさんとの車内トークで話題になりました。

実際に示してくださるスタイル。

以下の先生のツイートも参考になり興味深い。

文法って学生時代はあんまり意識していなかったけど面白いな。(なお、発掘した高1までの文法に関わる定期テストの点数は並以下。)

 

 小田勝さんの本といえば、

読解のための古典文法教室

読解のための古典文法教室

 

 が院生室の私の棚で眠っている。そろそろ起こさないと・・・。古文の作品を読みつつ気になった項目について辞書のように引いて使うのが良いかなと。

 上は非常によく知られている常識的な竹取物語の仕掛け。実際中学時代に聞いて知っているという生徒もいた。冒頭部だけを読み、こうした仕掛けがあると生徒に示す実践記録を見て学部時代は驚いたが、今の自分は中盤終盤の助動詞使用について調べていないのでそんなに厳密にかつシステマチックに書き分けられていたのかは分からないと思っている。

 

 先生方の語る文法とは

 何となくうまいこと締めているように感じる言葉を引用して記事を書き終えたい。

ポリフォニーという語のが分からず調べたのは秘密。

教えることの「恐ろしさ」と向き合う

自分も3週間ほど甲斐先生の国語教室に通っていたにも関わらず、あすこま先生のようにその学びを形に出来ていない。甲斐先生から学びは言葉にして初めて力になるということを聞いていたのに恥ずかしいばかり。学びを自分の心のうちに寝かせるのでなく、その一部を形にしたいと思う。

 授業後甲斐先生に、「○○君△△でしたね!」と言うと、「そうでしょ、〇年の頃の△△という単元ではね…」と嬉しそうに話してくださったことを思い出す。本当に一人ひとりの学びについて考えながら授業をなさっているのだ。

 自分が『学び合い』に対して持っている違和感の根はここにあるのかもしれない。極端な話、『学び合い』がうまくいっていれば教師が生徒の学びを見ていなくても授業が成立する。生徒同士の『学び合い』で各授業ごとの目標を達成しさえすればよいのだから。課題設定以外に教師の専門性が必要なく、生徒のことを見ていなくても成功するのだ。正直生徒が自力で解決できる程度の学びで成長が見込めるのかは大いに疑問だ。また授業1回で学びが収束することの方が少ないように思える。個々に違う課題を選択して行う場合はないのか。何より「主体的・対話的で深い学び」との対応関係が掴めない。

 全ての授業を『学び合い』で行うことに懐疑的なように、全ての授業を一斉教授や個々の学びで行うことにも同様に懐疑的だ。その点甲斐先生の授業ではフレキシブルでバリエーションのある学習指導が展開される。例えば古典の授業ではマシンガントークといって、甲斐先生の解説を黙って聞き、メモを取る学習活動がある。全員が共通に学んでほしいことがある場合このような一斉教授の効果が最大だと思う。全ての授業を『学び合い』を通じて学習したことで、仮に聞き書きや人の話を聞く能力のない生徒に育った場合今後の人生で大いに苦労するだろう。「子どもの力を信じよ」という美辞麗句に教師が翻弄され、必要な力を伸ばされなかった生徒は不幸だ。学校教育によって全ての力が過不足なく伸びるということは幻想に近いだろうが、教師が特定の学習法に固執する場合に必要な力の伸ばし漏らす可能性の高さを否定することは出来まい。身につかない一斉教授のアンチテーゼとして『学び合い』に価値があるが、教師が生徒を見ることや自身が学ぶことが必要なくなるような教え方は何にせよ好みでない。『学び合い』を学んでいる教師を否定するのではなく、あくまで私はそれを好まないというだけである。当然彼らは生徒を見ているだろうし、自身も学んでいるだろうが『学び合い』というシステム上それらが授業の良し悪しに全く反映されないと思うのだ。

教師と生徒との双方向的な学びの価値はAI時代だろうが必要不可欠ではなかろうか。

 

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

 

 久々に読み返して、また学部生時代のように説教食らったような気分になりたい。

 教壇に立つ以上教えることの「恐ろしさ」と向き合い続ける。自分の教えたことが誤りだったらどうしよう、自分が教えたことでその教科に関わることを嫌いになったらどうしよう、など。誰が言ったか「まともな考え方をしていたら教壇には立てない」と。その言葉の一端を学んだ気がする今日この頃。その「恐ろしさ」に向き合う覚悟はあるか。「覚悟、—覚悟ならない事もない」

大阪教育大学池田地区附属学校研究発表会とはこせんさん主催国語教育談義飲み会

 

こんなことばっかやってる。今回も夜行バスのお世話になり、関西へ。学びの多い日となりました。

はこせんさんの記事と合わせて読んでいただけると有難い。

 

メディアにひそむ意図を読みとる(大阪教育大学附属池田中学校小林信之先生)

 教育出版の「伝え合う言葉中学国語3」にある「情報を編集するしかけーメディアにひそむ意図―」という文章を中心に構成された単元である。メディアを扱うことは重要だと分かっているが難しいという小林先生の言葉は至極もっともだと思った。表現可能な時代だからこそ受け手を考えた発信をする力を育てたいという授業者の意図は言うまでもなく価値がある。

 新井先生のように受け手意識の欠いた情報発信は、受け手の混乱や主義主張の対立を生みかねない。情報の溢れる時代だからこそ慎重な情報の精査の必要性、言葉の持つ不完全さを自覚する学習が求められている。

 当該授業の言語活動は前時に作成したニュース(教科書にある皆既日食のニュースの静止画8枚から4枚を選んで絵コンテとニュース原稿を作成、1分程度)を視聴し合い、相互評価するというもの。面白かったのは編集方針が同じグループと違うグループの2回視聴、相互評価の活動が行われたこと、相互評価はワークシートを基に行われるがそこにニュースの出来についてだけでなく「同じことを伝えようとしているのに自分たちとは異なる表現なのは、何がどう違うからだろうか」「違うことを伝えようとしているのに同じ素材を使うことができるのは、なぜだろうか」という問いを与えていたことである。後者の問いについて見ていたグループの子が「日食を楽しみにしている人がいるという前提を共有してからニュースに入ろうとしている点で同じなんだ」と発言し、グループ内の学びが深まっていた。

 ニュースを作ることで発信者の立場になり、受け手を考えた発信をするという授業者のねらいは達成されたと考える。また、相互評価の段階でニュース作成時に考えていなかった点が主張者側から評価されるという場面が散見され、「情報は送り手の意図を超えて、受け手によって新たな解釈がなされることもある」ということへの気づきの種が蒔かれていたように思う。皆が発信者と成り得る時代、意図せぬ炎上を避けるためにも情報という概念理解も授業に組み込みたい。

 

二時間目はディベートという語に惹かれ高校の英語の授業を参観したが、英語でディベートが出来るようにする練習段階だったため早々と退散した。国語英語社会などでディベートは行われるだろうがそれらの共通点や教科に根差したねらいの違いはどこから来るのか考えさせられた。授業で使われていたボキャブラリーリストを見るに議論するための英語の語彙を増やすことに目的があるように思えた。

 

教育評価入門―資質・能力をはかる評価とは(大阪教育大学 八田幸恵先生) 

 

 

教育をよみとく -- 教育学的探究のすすめ

教育をよみとく -- 教育学的探究のすすめ

 

 

 

教室における読みのカリキュラム設計

教室における読みのカリキュラム設計

 

 を読み、話を聞いてみたいなと思っていた。元々母校茨木高校に勤めたいと思っていたが、京都大学教育学部に進学したことで(文学部に行けば…と仰っていた)研究者になっていたというマクラが面白かった。教育評価と指導要録の変遷は細かいので割愛し、パフォーマンス評価とルーブリックについてスライドと聞き書きを基に書く。

 パフォーマンス評価とは「もともと持っている見方・考え方を試行錯誤しながら組み換えていくプロセスをつつ、教科固有の見方・考え方を(高次の学力)をどの程度内面化しているかを評価する方法」で、その意味で「学校知を超えた生活知性への高まりを評価する方法」である。そのため、パフォーマンス評価は「既習の内容の総合」であり、「1時間のテストでは解けない問題解決過程をコントロールすること自体を指導する必要がある」のだそう。この際形成的評価と総括的評価の区別が曖昧になるため、定期テストのような総括的評価出来るものを保持することの重要性も強調していた。

  ルーブリックはチェックリストではなく「質的な基準」であり、学習者が「レベルアップするために何が必要かを具体的に記述したもの」であるという。この端的な説明で今までルーブリックに対して抱いていたモヤモヤが解消した。成果物を基に指導者がルーブリックを作成することで明瞭な指導が可能になるのだろう。

 

はこせんさん主催国語教育談義飲み会

 

 噂の美女国語科教諭はこせんさんと院生の私、来年度から教壇に立つ学部4年生2人で様々な方向で国語科教育について語った。

 現場で日々試行錯誤する人、生徒の前ではないが日々あーだこーだ考えている人、近い将来に教壇に立つ人で膝を突き合わせて語ることが出来たのは自分にとって有意義な経験だったように思う。

関西でもドタバタの院生。

祝3000アクセス越え!探究している問いをざっくり紹介

  拙いことを書いているブログながらお陰様で3000アクセスを超えた。

hama1046.hatenablog.com

 この記事を書いてからおよそ100日で2倍のアクセスを頂けたことに感謝。

 1000アクセス記念の自己紹介に続き、今回は研究課題すなわち探究している問いについてざっくりと紹介したいと思う。

 

 今のところ提出している題目は「中等国語科教育における「探究」的要素についての研究」、方々で恥を忍んでお配りしている名刺に記載している研究内容は「探究に求められるスキル・態度及びそれらを国語科学習においてどのように育成することが出来るか」である。私が現段階で考える「探究」をシンプルに言えば、「問いを立てて、情報を集め、思考し、言語化すること」である。「探究」の際あらゆる局面において他者との協働が不可欠である。

 この研究テーマに至ったのは、高校時代に行った卒業研究が母校の目指す「探究」になっておらず、調べ学習になってしまったという失敗によるところが大きい。実際卒業論文を課している中高においてもこうした問題は起こりうることであり、今後探究の実践が増えるにあたってますます増えていく深刻化する問題であろう。良い問いを立てられることや失敗しても良い探究の経験があることの重要性を後から痛感し、国語科の学びによってこうした失敗を防ぐことが出来るのではなかろうかと卒業研究を通して新たな問いが生まれたのである。この問いが自分の中に顕在化したのは大学三年の終わり頃であった。

 現在の研究キーワードは問い、国語科における情報の収集・整理・分析、最終成果の報告で終わらないまとめ・表現、質問・コメント力、概念形成・再構築である。

 

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

 

 問いについてはこの本を参考にした国語科授業実践が増えている印象がある。(この期に及んでまだ読んでいない)

 

【以下、キーワードについての最近のツイート】

 

 基本的に理論・教科書・実践の三本柱で修論を構成しようと考えている。特に過去の優れた実践を国語科教育における「探究」の具体として改めてその価値を見つめなおすとともに今後の実践の示唆を得ることをやっていきたい。

 

国語科教師の実践的知識へのライフヒストリー・アプローチ

国語科教師の実践的知識へのライフヒストリー・アプローチ

 

 今読んでいるこの本は私の興味関心どストライクで、個体史・ライフヒストリー研究も面白いなと思わされた。読了後是非購入したい一冊。そして遠藤瑛子先生のご実践を意味づけるカテゴリーに《探究志向の学びのスタイル》とストレートに求めているものが出てきてしまったという虚しさ。

 他の先行実践者としては、元大阪市立昭和中学校の植田恭子先生、中央大学附属齋藤祐先生、灘中・高の井上志音先生が挙げられる。植田先生、井上先生とはお話しさせていただく機会があった。齋藤先生のお話もぜひ伺いたい。また以前参加した研究会で魅力的なご実践を発表なさった、開智日本橋学園中・高の関康平先生はIB文学に着想を得て、概念ベースの国語科授業づくりについて探究なさっている。修士課程修了後は自分もこうした実践者の先生方のように優れた実践を展開したいなあと常々思っている。

 今日の夜は夜行バスに揺られて大阪へ。明日及びその夜はお楽しみである。

http://www.ikeda-e.oku.ed.jp/wp-content/uploads/2018/09/大教大池田地区共同研究2次案内(表紙)2.pdf

今後も各地の探究を求めて。