教えることの「恐ろしさ」と向き合う
久しぶりのブログ更新。今日は凄いものを見た、というのが率直な感想です。→感銘を受けました...。甲斐利恵子先生の「少しだけ戦争と向き合う 詩を詠むことで」の発表会 https://t.co/L4zZz2uD1K pic.twitter.com/GZluWzs1bq
— あすこま (@askoma) 2018年11月27日
自分も3週間ほど甲斐先生の国語教室に通っていたにも関わらず、あすこま先生のようにその学びを形に出来ていない。甲斐先生から学びは言葉にして初めて力になるということを聞いていたのに恥ずかしいばかり。学びを自分の心のうちに寝かせるのでなく、その一部を形にしたいと思う。
一度教室を拝見したので、雰囲気は想像できる。これを書けるあすこまさんもすごい。顔の見える関係の中で生まれた言葉一つ一つを取り上げて鍛える感じや、「あとはみなさん、◯◯をよろしく!」と次の教師に託す感じ、食卓を囲むような雰囲気。本当に日本版アトウェルだなぁ。 https://t.co/oMvbSlDeqf
— モリッシー (@vivencia82) 2018年11月27日
甲斐先生の教室で学習記録も一部読ませてもらったが、3年間で間違いなく言葉の力を鍛えられているんだよね。その鍛え方は余すところなく一人ひとりにまなざしを向けつつ、全体の力を引き上げて行くもの。全体に話しているのに、自分に語りかけられているような感覚も抱いた。
— モリッシー (@vivencia82) 2018年11月27日
甲斐先生の国語教室を見た人だからこそ分かる凄さ。
— はまてん (@Hamaten61) 2018年11月27日
そこから巣立った生徒を育てなければいけない高校の国語科の先生はプレッシャーは凄いよ。
授業後甲斐先生に、「○○君△△でしたね!」と言うと、「そうでしょ、〇年の頃の△△という単元ではね…」と嬉しそうに話してくださったことを思い出す。本当に一人ひとりの学びについて考えながら授業をなさっているのだ。
自分が『学び合い』に対して持っている違和感の根はここにあるのかもしれない。極端な話、『学び合い』がうまくいっていれば教師が生徒の学びを見ていなくても授業が成立する。生徒同士の『学び合い』で各授業ごとの目標を達成しさえすればよいのだから。課題設定以外に教師の専門性が必要なく、生徒のことを見ていなくても成功するのだ。正直生徒が自力で解決できる程度の学びで成長が見込めるのかは大いに疑問だ。また授業1回で学びが収束することの方が少ないように思える。個々に違う課題を選択して行う場合はないのか。何より「主体的・対話的で深い学び」との対応関係が掴めない。
全ての授業を『学び合い』で行うことに懐疑的なように、全ての授業を一斉教授や個々の学びで行うことにも同様に懐疑的だ。その点甲斐先生の授業ではフレキシブルでバリエーションのある学習指導が展開される。例えば古典の授業ではマシンガントークといって、甲斐先生の解説を黙って聞き、メモを取る学習活動がある。全員が共通に学んでほしいことがある場合このような一斉教授の効果が最大だと思う。全ての授業を『学び合い』を通じて学習したことで、仮に聞き書きや人の話を聞く能力のない生徒に育った場合今後の人生で大いに苦労するだろう。「子どもの力を信じよ」という美辞麗句に教師が翻弄され、必要な力を伸ばされなかった生徒は不幸だ。学校教育によって全ての力が過不足なく伸びるということは幻想に近いだろうが、教師が特定の学習法に固執する場合に必要な力の伸ばし漏らす可能性の高さを否定することは出来まい。身につかない一斉教授のアンチテーゼとして『学び合い』に価値があるが、教師が生徒を見ることや自身が学ぶことが必要なくなるような教え方は何にせよ好みでない。『学び合い』を学んでいる教師を否定するのではなく、あくまで私はそれを好まないというだけである。当然彼らは生徒を見ているだろうし、自身も学んでいるだろうが『学び合い』というシステム上それらが授業の良し悪しに全く反映されないと思うのだ。
授業で問題演習をして、解説の後に答え合わせをした。後になって解説が納得できないと質問に来た生徒がいた。自分でも自分の解説が100%正しいなんて信じられないところがあるから、こういう風に疑問を呈示してくれる生徒の存在はたいへんありがたい。
— ᴘᴇᴅᴀɴᴛɪᴄ.ᴋᴀᴡᴏʀᴜ (@pedkwr) 2018年11月27日
☆教壇の上から知識を下げ渡すような授業ばかりをしていると独善に陥る。最近は従順な生徒が増えてきたから、知らず識らずのうちに裸の王様になっている先生方は多いんじゃないかな。
— ᴘᴇᴅᴀɴᴛɪᴄ.ᴋᴀᴡᴏʀᴜ (@pedkwr) 2018年11月27日
教師と生徒との双方向的な学びの価値はAI時代だろうが必要不可欠ではなかろうか。
ある生徒は小学校の国語学習に嫌気が差していて、中学の国語学習にも何の希望も持っていないと宣言したらしい。その生徒も今や先生の授業の虜。全員が全員そうとは言わない。しかし一度閉じてしまった目を開かせることは本当に力がないと出来ない。甲斐先生の力量を示す一つの証拠なる事例だと言える。
— はまてん (@Hamaten61) 2018年11月27日
教えることで閉じていた目を開かせることもあれば、閉ざしてしまうこともある。中高でも勿論その負の側面は起こり得る。小学校で教えるリスクは中高の比ではないと思う。このことを考えると私は免許こそあれ、小学校の先生にはなれない。自分によってその後一切の学びの芽を摘む可能性があるのだから。
— はまてん (@Hamaten61) 2018年11月27日
現場に立ったら生徒全員国語を好きにする!ではなく、自分の指導や授業によって国語が嫌いになったという生徒を出さないことを目標としたい。
— はまてん (@Hamaten61) 2018年11月27日
ハードルが低いようで物凄く難しい目標。その目標のために顔色を伺って楽しいことだけやるのではなく、しっかりと力をつけさせるという前提を踏まえた上で。
力が付いたけどその教科を嫌いになるという生徒はいないんじゃないかなと短絡的ながら考えているのでまずは力を付ける授業を考えたい。どんな力を?どのように?
— はまてん (@Hamaten61) 2018年11月27日
そして好かれなくてもいいから嫌われない教師になりたい。教師に対する好き嫌いが教科の好き嫌いに直結しているのをよく見聞きするので。
久々に読み返して、また学部生時代のように説教食らったような気分になりたい。
教壇に立つ以上教えることの「恐ろしさ」と向き合い続ける。自分の教えたことが誤りだったらどうしよう、自分が教えたことでその教科に関わることを嫌いになったらどうしよう、など。誰が言ったか「まともな考え方をしていたら教壇には立てない」と。その言葉の一端を学んだ気がする今日この頃。その「恐ろしさ」に向き合う覚悟はあるか。「覚悟、—覚悟ならない事もない」