虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

【勝手に書評】上野千鶴子『情報生産者になる』

 

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

 安定のちくま新書

上野千鶴子『情報生産者になる』(ちくま新書)読了。381ページというボリュームであったが、続きが気になり気付けば約1週間時間を見つけてはこれを読むという生活を送っていた。本越しに熱量が伝わる。上野さんの教育がこの一冊に凝縮されている。

 「はじめに」において上野先生は、現場において学生が「情報生産者になる」ことを重視して指導していたと書いている。そんな上野先生の指導がこの本を通して伝わってくる。私は探究を通して、「知を求める人」を育成したいと考えている。中等教育と高等教育、現場は違えど理想とするところは変わらないと思った。理想を具現化するためにはある程度の体系が必要であり、この本は上野先生が作り上げた一つの体系を読者にもたらす。

 

この本には上野先生が作り上げた情報生産の方法論が量質ともに非常に充実している。探究と国語科との関連を研究している身である私としては、この賜物をいかに中高という実践の場に還元するか考えてみたいと思わずにはいられなかった。探究・国語科それぞれに活かせる部分が多いにあると確信している。

 

「Ⅰ 情報生産の前に」

 p.13からは情報生産の前段階として、情報や問い、学問について丁寧に説明されている。情報はノイズによって発生するというのはなるほどと思わされた。何事も自明だと思っていると情報は発生しない。外山氏の言う「セレンディピティ」を思い起こした。

 

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 

  

 以降は時系列でツイートを基に振り返る。

「なぜならあなたの立てた程度の問いは、あなた以前に、あなた以外のひとによって、とっくに立てられていると考えるところから研究は出発するからです。」(上野千鶴子『情報生産者になる』p.22)

先行研究を批判的に研究せよというところでの一節。情報にアクセスしやすくなったというが自分が求める先行研究に巡り合うのはなかなかに難しい。

   教科書における学習の手引きの分析した研究絶対にありそうなんだけど…なかなか良いのが見つからない。現在の悩み・・・。良い研究があれば教えていただきたい。

  現在の研究の軸となる参考文献は上の本。のアメリカのクリティカル・シンキング教育を概観し、日本のクリティカル・シンキング教育や国語科教育に示唆を与えている点で価値がある。早く購入したい。酒井先生が示したp.258『図7-1「哲学的」討論から見た探究教育の構造』は現在行われている優れた探究実践の構造と符合する。

 

 

話を戻そう。

 

p.28-30に国語教育への言及あり。 首肯しかねる部分もあるが、重要な指摘。作文教育及び文学教育について言及している部分。首肯しかねる理由としては、作文は自分の想いを表明するもので学年が上がるにつれて文種を変えていくことや丁寧な指導が必要ではあるが書く意義がないとも言い難いから、文学が問いを孕んだもので問いを考えるうえで格好の教材であると私が考えているから、論理的な文章を増やすことがそのまま論理的な文章のアウトプットにつながるわけではないとかんがえているからである。

 

 問いをブレイクダウンする、自分の問いを自分で解く等は現在の研究によって分かっていること及び私の考えとマッチするためすんなりと読むことが出来た。

 

「Ⅱ 海図となる計画をつくる」

 探究がさまようものにならないため、学校現場でよく行われるゴールや期限のある探究でやるべきことを見失わないためにも、先行研究の検討や研究計画の立案は不可欠である。具体的な事例や研究計画書に沿って書かれているため意義が理解しやすい。かく言う私の研究計画書も見直さなければならないなと。

 「クレイム申し立ての宛先」という考え方はやはり看過できないと思った。私の研究で言えば、母校の国語科及びそこに勤務したい自分自身、探究に取り組む学校の国語科教員ということになろうかと思う。読んでほしい相手がいればそのために何を伝えるべきか精査することが出来る。自分一人で抱え込むものであればそれを想定しなくてもよいのかもしれないが、研究及び情報として発信する場合は必須の考え方である。国語科で言えば書くことの指導における「他者意識」にも通ずる。

 

「Ⅲ 理論も方法も使い方次第」

 本章では私を含めた初心者が躓きがちな「仮説」や「理論的枠組み」といった方法論について、マルクス主義や「孤独死」をテーマにした研究を具体例に挙げて説明している。

 私の研究で言えば、探究と国語科との関連を明らかにした理論の構築が目的であり、そのために様々に試みられている探究の理論や探究の要素と関連がある国語科の実践を紐解いていくことが求められている。調査方法はある程度限定されてきているが、研究方法すなわちどのような理論的枠組みを採用するかは定まっていないのが現状である。

p.154まで読了。今日はこの辺で寝ます。 豊富な事例と著者のフィールドである社会学の技法の解説が面白い。研究計画書に関しては早速練り直さないと… 次のページからの「Ⅳ 情報を収集し分析する」も楽しみ。

 

「Ⅳ 情報を収集し分析する」

 あらゆる質的情報は言語情報に置き換えられる、言語情報は語・言説・物語の3つの次元があり、論文はいわば言説を文脈化し一つの物語を紡ぐことという指摘が面白かった。

 質的情報の分析法として「KJ法」「うえの式質的分析法」が紹介されていたがこれらは体で覚えることが重要だそうである。再文脈化は普段のゼミでもよく行うことではあるが、新たな発見が起こるというところまで経験したことがない。今後行うインタビュー分析に取り入れようかと思う。

 半構造化自由回答法のインタビュー調査の方法や意義についてもこの本でよく分かった。自由回答法では聞きたいことをうまく引き出せず相手も困惑する、構造化された面接法は新たな気づきが得られる可能性は低いということであろう。

上野千鶴子『情報生産者になる』(ちくま新書)の「9.インタビューの仕方」は対象者の選択や方法論、心構えについても丁寧に言及されている。『よそのお宅に上がるときには、洗濯したソックスを持参して玄関で履きましょう』(p.183)という文からもその丁寧さが伺える。笑

 相手に与える印象も大切である。

 この章で取り上げられている様々な手法を駆使し、データに語らせる側面も持ち合わせた研究にしたい。

「Ⅳ 情報を収集し分析する」まで読了。 インタビューによる質的調査をどのように行うかは我が研究でも大事なところだ。というかそろそろ研究に協力して欲しい教員の方々にアポイントメントを取らねば…

 

「Ⅴ アウトプットする」

 目次や論文の書き方について書いてくださるのは有り難い。論文の書き方は上野ゼミ門下で武蔵大学准教授の松井隆志氏の文章を引用しているのも温かみや上野ゼミの雰囲気が感じられてよかった。読んでもらう以上読者にとって負担が少ない読みやすいものにしていきたい。以下は国語学の先生にお勧めしていただいた本。

 

論文・レポートの基本

論文・レポートの基本

 

  探究することに加え、それ皆で共有する情報とするための方法を指導するためにこうした本も参照していかねばなと。

 

  今読んでいるこの本の次に読みたい。

 コメント力は大学に入ってだいぶついてきたかなと思う。量を言うことを自分に課していく中で学んできたこの本で言われているように内在的/外在的、役に立つ/立たないの区別は非常に有効だと思う。

「Ⅴ アウトプットする」読了。目次やコメントについては学部3年でお世話になっていた古代文学ゼミで学んだことを思い出した。卒論提出前に目次検討、必ずコメントすることの重視。京大式カードはなかなか便利そう。

うちの古代文学の教授はすごいと思う。本当に尊敬している。高校で指導されてた頃のお話を聴きたい。色々なことを学ぶにつけ、本質的な指導をなさっていたんだなと驚かされる。勿論他の先生方も凄いんだけど。最近園長先生としての仕事がお忙しくて構って頂けないのが本当に悲しい。また授業受けたい。

 附属学校園の校長・校長業務希望制にしませんか?まあ、我が母校の校長も大学教授だったし、その恩恵は少なからず受けているから一概には言えないが。

 

「Ⅵ 読者に届ける」

 口頭発表はレジュメを読み上げる方法しか取ってなかったので、大いに反省すべきであると気づかされた。今後発表を多くこなしていかなければならない立場になると思うので課題としたい。

 単著の刊行は人生で叶えたい夢の一つである。単著において自分の問題意識や現状の考えを表明し、読者に探究の端緒を与えることが出来れば、これに勝る幸せはないだろう。そんなコンセプトがある、私が紹介するまでもない本。

 

国語の授業の作り方: はじめての授業マニュアル

国語の授業の作り方: はじめての授業マニュアル

 

 当ブログで最も読まれているのは、以下の記事である。

 

hama1046.hatenablog.com

 

『情報生産者になる』に戻ろう。

これは本当にオススメ。 「探究のプロセス」に必要な具体を備えているし、挿入されているエピソードは厳しくも熱量のある上野さんの教育が垣間見えるものである。探究の方法論を体系化したものには桑田てるみさんの著作にもあるが、高等教育で求められる水準で書いた本として優れている。

https://bookmeter.com/reviews/74921903

興奮覚めやらぬという感じで様々に感想を述べているので是非とも読んでいただきたい。

 探究に興味を持った方は以下の本も参照されたい。

思考を深める探究学習: アクティブ・ラーニングの視点で活用する学校図書館

思考を深める探究学習: アクティブ・ラーニングの視点で活用する学校図書館

 

 手に入れました。 控えめに言って好き。

 

 現在の研究に絡めて様々に『情報生産者になる』の魅力の一端を紹介していったが、最後は「あとがき」の上野先生の言葉を引用して筆を置きたい(パソコンですが)。

 

本書が学ぶ立場のひとたちにも、教える立場のひとたちにも、お役に立つことを願っています。

二〇一八年に盛夏に

                                  上野千鶴子

 

 

書くことの教育に対する現在の私見

 高等学校学習指導要領のダイナミックな改訂に伴い、国語科のあり方についての議論が盛んになされている。中でも研究者による問題提起は価値があると思う。自身の立場に胡坐をかかず、現場の教員とともに国語科教育教育について考えていこうとする態度はやはりこれからの国語科教育に携わる者の胸を打つ。

五味渕先生が執筆された『高等学校国語科が大きく変えられようとしています』は必読である。

note.mu

 さて、表題の件に移るがここ最近は専ら「書くこと」について考えている。というのも、書く行為には内的な思考を外化させるだけでなく、思考を促す働きがあると考えているからだ。また、書くことの指導における形式と内容とのバランスをとることの難しさに頭を悩ませているからだ。

 平成28年2月19日教育課程部会国語ワーキンググループ資料6のp.11『現行の高等学校国語科に課題と対応(案)』の課題2には、『話合いや論述など「話すこと・聞くこと」「書くこと」における学習が低調』とあり、この課題への対応策として授業時数や活動の増加だけでなく、これまで以上に「話すこと・聞くこと」「書くこと」の指導の体系性が求められることになるだろう。

 日本国語教育学会全国大会の大学部会シンポジウムでは現状の教育(ここで国語科教育としないのは渡辺氏が国語科だけの責任でないと強調していたため)に「論じる」訓練が不足しているということと、パラグラフ・ライティングについて考えさせられた。

 

hama1046.hatenablog.com

  日本国語教育学会全国大会の大学部会シンポジウムでの見聞の詳細は上の記事を笑覧ください。

 

ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ

ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ

 

  データも交えてシンポジウムの内容をより詳細に書いているの上の本。

 あすこま先生の指摘と合わせて検討したいところ。現状パラグラフ・ライティングをゴールではなく、多様な書き方のうちの一つとして指導する必要はあるかなと。

 

増補版 作家の時間: 「書く」ことが好きになる教え方・学び方【実践編】 (シリーズ・ワークショップで学ぶ)

増補版 作家の時間: 「書く」ことが好きになる教え方・学び方【実践編】 (シリーズ・ワークショップで学ぶ)

 

  そんなあすこま先生も執筆されているのが上の本である。書き方をどんなに体系的に指導したところで、その活動が好きにならなければ意味のないものになってしまう。(この辺は古典の持つ問題と似ている)それにしても「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったものである。この本では、小学校の先生の熱心さとライティング・ワークショップの体系性と魅力(第12章まで)や中・高での実践の可能性(第13章・第14章)が見て取れる。書く経験は書く力の向上だけでなく、それを通して本および著者や作家へのリスペクトにつながり、最終的には生涯読書へとつながっていくのではないかと考えている。ワークショップ授業は実践したいことの一つである。

 

 9/4・5に国立国語研究所で行われた言語資源活用ワークショップ2018に行ってきた際も、書くことについて考えさせられるポスターセッションがあった。言語資源活用ワークショップ2018でブログを書けなかったのは私の知識の不足によるものであって、内容がつまらなかったわけでは当然ない。しかしながらやはり最も興味を持つのは教育への応用研究である。私が最も興味を持ったのは『現職教員による児童・生徒作文の評価基準の分析』という発表だった。当発表内容の詳細は言語資源活用ワークショップ論文集に掲載予定のためそちらに譲る。小中の作文およびその評価が形式よりも内容を重視する傾向が強いのではないかという問題意識に共感した。また、教師による作文の総合評価と形式面の評価とには相関関係が見られ、この結果は教師の評価の妥当性と形式面の評価項目を形成的評価や作文指導に生かせることを明らかにするものだった。内容が良ければ、文章そのものの巧拙を問わないというのは情操教育の側面はいさ知らず国語科教育としてはやはり問題があるといえる。

 

情報生産者になる (ちくま新書)

情報生産者になる (ちくま新書)

 

  上の本は現在読んでいる途中だが、著者の上野千鶴子氏もこうした面への批判している。

 

何はともあれ…

「より体系的な書くことの指導のためにどのような指導方法や内容があるのか」という問いもまた「とっくに立てられている」のである。また新たな探究が始まったのかもしれない。

 

教育学研究科学生の戯言

 我が大学はいわゆる教育学研究科の修士課程がなくなり、教職大学院に一本化される。こういう大学は多いようだ。

 教職大学院は実践的研究者を作る役割ではなく、現場のリーダーを育てる役割を持っている。したがって、現在教育行政が難儀している管理職不足に対しては効果があるが、正直なところこの一本化の流れは学校教育全体の弱体化を招くのではないかと危惧している。

 事実教職大学院への長期研修で研究を行っていた先生は研究を活かして授業をするのが楽しみだとおっしゃっていたが、翌年度自治体の指導主事に異動されていた。研究がそのまま現場に還元されないと言った実態が教職大学院にはあるのではないか。

 いわゆるストレートマスターで教職大学院に進学した者は授業および実習で齷齪しているようだ。課題研究に充てる時間もあるようだが、教育学研究科修士課程に比べるとごく少ない時間だろう。教育学研究科修士課程の学生は時間的なゆとりがあり、自身の研究について考え行動する時間が多い。教職大学院の学生は自分の研究への興味関心によって動くというよりも、上から与えられた知識を享受し、教育行政にとって都合の良い教師および管理職になるよう扱われているように見える。このことに気がついている教職大学院の学生はいるのだろうか。データは見ていないため分からないが、教職大学院は内部進学者がさほど多くない(内部進学者があまり進路として選ばない?)ため、他大学の学生の受け皿になっている実態があるようだ。早く管理職になりたいといっている友人が教職大学院に進んでいたのは賢明な判断だと思ったが、仮に教育学研究科との違いを論文の有無という点のみで考えている人がいるならば教育を担う存在としてあまりに浅薄だと言わざるを得ない。

 教育学研究科修士課程(およびその他研究科)が教育現場にとってどのような影響を与えているかについては検討が必要だが、自治体のミドルリーダーを養成するという目的以外の大学附属校(主として研究開発を担う国立大学附属)の教員は教育学研究科(およびその他研究科)の出身が多いようだ。もっとも教職大学院の成果がまだそういったところに表れていない可能性は否定できないが。私は自身の希望する進路と照らし合わせて教育学研究科を選択した。教職大学院を選択した者にも言い分があるだろう。いずれにせよ双方の顕在・潜在のメリット・デメリットを洗い直すことなしに論じることのできない問題だと考える。

 ともかくすぐに役立ちそうなものに一本化し、一見どのように役立っているか見えづらいものを削減して行く流れ(文系大学院の削減、研究に対する冷遇しかり)に一種の虚しさや危機感を抱くのである。私見を個人の見聞によって個人の感情に任せて述べているだけなので、考えるきっかけを提供するものとして話半分で読んでいただきたい。精緻にエビデンスを揃えて論じ直したいところである。

ディズニーアカデミー体験会の感想

www.tokyodisneyresort.jp

 表題の通りである。千葉県浦安市生まれで就学前教育をディズニーリゾートで行ったといっても過言ではない私がディズニーアカデミーの体験会の存在を見過ごすはずがなかった。

 とは言え、今日は「大学・短大・専門学校向けセミナープログラム」の体験会であり少々場違い感があったことは否定できない。しかしながら、プログラムの内容は中高生の学ぶべきことが多々あり、私自身も改めて考えていかねばならないことであった。以下に今日学んだこと、当該プログラムの魅力を述べる。

 

東京ディズニーリゾート・コミュニケーションスキルとは?

 1983年の開園から35年間変わらない、親しみやすさや安心感といったシンプルで普遍的なコミュニケーションをアカデミー担当者と実際に園内で働いているキャスト各1名とともに約2時間学ぶというプログラムである。

 問いに対するディスカッションやゲーム、キャストの体験談などを通して、コミュニケーションの重要性やそれを成り立たせるうえで必要なことについて学び考えることが出来るものだった。本日扱われた問いを以下に示すので是非読者の方々にも考えていただきたい。

・何故パークではゲストとのコミュニケーションを大切にしているのか?

→コミュニケーションの目的を意識させる問い。話が広がり過ぎないようパークに限定している。

・リピーター(再来園者)が90%以上を占める理由は?

・皆さんが目指す仕事が目指す仕事が提供するものは何ですか?それによってお客様はどんな気持ちになりますか?

→ゴールを考える機会を与える問い。

 また、キャストの方はコミュニケーションのポイントとして、挨拶・スマイル・言葉遣い・アイコンタクトの4つを挙げていた。その中でも言葉遣いの重要性についてのキャストの方の体験談が興味深かった。そのキャストの方は、身長が足りずジェットコースターに乗れなかった子に対し、「身長が足りなかいから乗れないね、ごめんね」と声をかけ泣かしてしまった。これ自体はごく一般的な対応である。その後彼の先輩キャストが泣いている子に対し「今回は残念だったけどご飯をいっぱい食べて大きくなってまた乗りに来てね!」と声かけ、泣いていたその子の表情を笑顔に変えたそうである。単に状況に応じた丁寧な言葉遣いだけではなく、言葉を選ぶことで相手の感情が変わるということを意識するのも言葉遣いに含まれるのである。

 

言葉を選ぶ、授業が変わる!

言葉を選ぶ、授業が変わる!

 

  この話を聞いて上の本を読む必要があるなと改めて気付かされた。教師は生徒の思考を分かったつもりで対応してしまうものである。思い込みで声をかけてしまう前に少し立ち止まって言葉を選ぶことを忘れない国語教師でいたい。

 

ディズニーと教育の親和性

 上記の内容は当該プログラムのごくごく一部である。ディズニーの持つ、思いやりの精神やユーモア、説教臭くない形で我々に大事なことを教えてくれるといった魅力は、今後教育の世界にどんどん取り入れていくべきなのではないかと考えている。例えば、私が下手な道徳の授業をするよりもディズニー映画を見て考えたことを共有しあうことの方が実りある学びになるのではないかと思うのである。選択授業などで中高生向けの教育プログラムを軸にした学びを実践したいなと夢を膨らませた一日だった。

全国漢文教育学会教育講座3日目

こんなわけで更新を怠りました。継続の難しさを痛感。

 

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 『三国志』と高校漢文(渡邉義浩氏)

 恥ずかしながら私は『三国志』及び『三国志演義』についてほとんど知らない。そんな私にとって渡邉氏の講義が文献紹介から始まったことは大変ありがたかった。

 

三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書)

三国志―演義から正史、そして史実へ (中公新書)

 

 渡邉氏が入門書として勧めていたのがこの本。「『三国志演義』と『三国志』の違いを説明する中から、『三国志演義』にも民の心情が現れ、『三国志』にも偏向があることを知る。そして、『三国志』の偏向を読み解いて史実に向かう方法を示す。」と自著の優位性を説明する。誰かによって書かれた時点で100%史実に基づくということは有り得ないこと、歴史と物語との関係を見ることにこの本は役立つのではないだろうか。こうした視点でこの本及び『三国志』『三国志演義』について学びたい。

 

三国志―漢文講読テキスト

三国志―漢文講読テキスト

 

 陳寿三国志』本文より名場面を集めたのがこの本。大学のテキストのため、後半から書き下し文や訳が欠けているそうであるが、渡邉氏(y-wata@waseda.jp)に連絡すれば書き下し文や訳の載った解答PDFを下さるそうである。名門私立中高によっては一つの古典作品を徹底的にやるという学び方がある。(現状は不明だが、慶應義塾中3『平家物語明治学院など)私個人としては多様なテクストとの出会いを優先したいので同意しかねる学び方だが、そうした学びを行う際の教材として有効ではないだろうか。

 

三国志事典

三国志事典

 

 渡邉氏が学校図書館に置いて欲しいと勧める一冊。人物・名場面・思想・文学・邪馬台国などについて渡邉氏一人で書き上げたそうである。かなり売れているそうで『三国志演義事典』を準備中だそうである。

 

《十巻完結版》三国志1-10巻(マーケットプレイスセット) (新潮文庫)

《十巻完結版》三国志1-10巻(マーケットプレイスセット) (新潮文庫)

 

 高2まで理系だった渡邉氏を『三国志』研究の方へ導いたという吉川英治三国志』。そんな『三国志』に渡邉氏が語句の注や明らかな誤りを正したのがこの新潮社版『三国志』である。

他多数紹介いただいたが、私が興味を持ったの一部はこの辺り。個人的に出版の背景までお話しいただけたのが有難かった。

その後は考古学的見地から三国志研究がどこまで進んでいるかをお話しなさっていた。私の実力不足でうまく伝えることが出来ないので詳細をここに記すことは諦めるが、文献学と考古学との相互関係によって研究が進んでいるというのは興味深かった。明月記による彗星の発見などが有名な古典と他領域との関わりにも通ずる。国語の各領域についての知識も大事だが、学際的な研究に対する国語の各領域の貢献についての知識も不可欠になってくるだろう。アンテナを張っておきたい。

 

入試漢文―新テストと漢文―(三宅崇広氏)

平成29年度試行調査 問題、正解表、解答用紙等|大学入試センター

 駿台予備校講師の三宅氏がいわゆるプレテストの第5問を扱い、新テストに向けての漢文指導についてお話しされた。以下にその概要を示す。

①リード文・〔注〕・設問にまとめて目を通す。

 注が多ければ多いほど日本語の情報が手に入る。以下に日本語の情報を得るかが漢文においても鍵になる。漢文といえど純粋に漢文を読解する力だけでなく、情報処理の力が求められているのが最近の傾向。

②選択肢選びではなく、自身で答えを出してから選択肢を決める。

 そもそも選択肢を消す作業には時間がかかる。加えて解答者をだまそうとする選択肢を頼ってはいけない。生徒が自分で読み解けるようになることを狙った授業を組み立てる。2択で迷った時読んでいる付近に答えがあることは少ないため、その2択を意識して読み進めるよう指導する。

③見直しの際は自分の選んだ選択肢をまとめて読み、矛盾やつながりを見る。

 全て正しい選択肢を選べている場合、それらをつなげて読むことで、評論ならば要約、小説ならばストーリーが出来上がる。設問や傍線部はその文章の重要なところ乃至作問者が重要だと思っているところにあるはずなので、上記の通りになる。矛盾がみられる場合やつながりが見えない時は、再度選択肢を検討する必要がある。

 この他にも、三宅氏は多くの意味を持つ漢字の使い分け(文法及び語順によって見分ける方法)の指導や比べ読み指導の重要性などをお話しされた。いずれも示唆に富む内容だった。

 やや話がそれるが、センター試験やプレテストにおいても教室における言語活動が想起される問題(平成30年度本試験第1問の問3、前掲プレテスト第5問【文章Ⅱ】)が見受けられる。少々大げさかもしれないがここからも高等学校における授業を変えていこうとする大学入試センターの姿勢が伺える。国語科の不易流行も考えていかなければならない。生意気ながら今後ブログに書きたい読了済みの参考文献を挙げたい。

 

 この本の内容をさらに日本の国語科教育に結び付けて論じることが修士課程における私の課題の一つ。

 

思考を深める探究学習: アクティブ・ラーニングの視点で活用する学校図書館

思考を深める探究学習: アクティブ・ラーニングの視点で活用する学校図書館

 

 この本は前作である

 

中学生・高校生のための探究学習スキルワーク―6プロセスで学ぶ

中学生・高校生のための探究学習スキルワーク―6プロセスで学ぶ

 

 をさらに加筆修正し、探究の必要性や理論面をふんだんに盛りこんでいる充実の作品。教科における副読本ないし中高生に探究指導する際の教科書として扱いたい。

 

ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ

ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ

 

 

 

hama1046.hatenablog.com

 

ここで読まねばと思い、昨日読了した本。「書くこと」の高大接続について自身で行った実験・研究結果等を踏まえて論じた画期的なものでありながら、高校・大学それぞれにさらなる研究の余地を残しているところが魅力である。探究と関わる記述も多く見られる。

 

3日間の講習を終えて

 実に多岐にわたる内容で5000円も惜しくないと思える充実ぶりであった。(貧乏大学院生にとって5000円は大きいのである)修了書に書かれた「天」の字が下の横棒が長い異体字だった(逆にどうやって変換した?)ことは不満だったが、それ以外はおおむね満足であった。繰り返すが全国漢文教育学会が新学習指導要領をはじめとする教育改革の波に対応しようと尽力していることに共感を覚えた。今後の勉強への示唆も得られたため、漢文やその他国語科教育に関わる諸領域への見識を深めるべく研鑽したい。

全国漢文教育学会教育講座2日目②

先日に引き続き。3日目については明日。

 

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交流会

 教育講座において初の試みだという交流会(休み時間で行ったことはあるそう)。各グループ10名ほどで自己紹介、漢文の指導で困っていること、新学習指導要領への対応、漢文教育研修会への要望などについて意見交換をした。

 交流会を講座の中に組み込むというところに全国漢文教育学会が新しい教育に向けている本気度が伝わってくる。しかしながら、そんな想いも空しく、偉い先生のご講義が聞きたい!会員同士で話してもしょうがないだろ!という先生が数名帰られたそうである。彼らは上から下に流れるという知識観から抜け出せないのだろう。自らが協働せずにこれからの教育の波を乗り越えられるのだろうか、またそれぞれに事情はあるだろうが6コマあるうちの1コマぐらい力を貸していただけないのか。いずれにしても同僚にいて欲しくないタイプである。

 交流会においては様々な立場で教育に携わっている方の悩みや考え、経験を聞くことが出来た。まずは以下に漢文指導でお困りだという悩みとして出たものを示す。

・漢文専任ないし専門性のある先生が減り、かつ教師自身が漢文に興味を持っていない。どのように漢文好きな教師を育てるか。

・音訓の感覚すら希薄になってきているほど漢字の読めない生徒にどのように漢文指導をすべきか。

・自身が漢文を読めない。(訓読というよりも背景知識の不足)

中高一貫校における漢文のカリキュラム編成をどうするか。

・漢文の時間が取れない。(3年間で2.5時間ほど)

時代の変化に伴い様々な要因で漢文の扱いが減ってきている実態があるようだ。加えて教師の側が漢文に対する興味・知識を持つためには、当然のことながら読書や学会参加など地道な努力が必要だということで落ち着いた。国語科の教員は、私の専攻する国語科教育学だけでなく、日本文学(上代・中古・中世・近世・近代・現代などの時代だけでなくジャンルの違いもあろう)、漢文学(日本と同様)、国語学、(最近はメディア・リテラシー)など幅広い分野の知見が必要になる。全てについて専門といえるまでの知識をつけることは難しいにしても、苦手だから好きじゃないからという理由で全く扱わないということは問題である。全体会で出た話を先取りして言うと、大学において高校で全く漢文について学んでいないという学生が毎年数名いるそうである。実際にそういった指導をしていた先生に話を聞いたところ「私漢文嫌いなので」と言われたという。入試で扱う大学が少ないにしても、全く扱わないというのは明確な越権行為ではあるまいか。大村はま先生が教壇から引き釣り下すレベルの業人、なんとも胸が痛い話である。漢文に割ける時間の少なさに関しては(本当は学習指導要領の通り古・漢の偏りなく扱うべきだろうが)ますますの指導事項の精選や指導の工夫が求められる。農業高校に勤めていた先生は、生徒が授業で菊を育てていた時期に菊を扱った漢文を題材とした時いつも以上の食いつきや授業の深まりが出たこと、象形文字について扱った時「馬などは何故横から見た形なのか」「人も横から見た形だと知っていたなら金八先生のような誤解は生まれないのに」などといった食いつきを見せたことなどを報告し、学習者の興味・関心に注目した授業のあり方の重要性を示唆していた。

 新学習指導要領への対応についての話ではどこの学校もあまり話題に上がっていない(日々の業務で手一杯でありしたくても出来ない)という実態を知り、現場の大変さを痛感した。改めて大学院で学んでいる私が動向を学び、現場へと還元していかなければいけないという責任を感じた。新学習指導要領下でどのような漢文指導ができるかは考えるべき問題であろう。

 グループの先生方の漢文教育研修会への期待・要望としてはいわゆる定番教材の扱い方や指導に使える知識が多かった。私は新学習指導要領下の実践に資する教材開発や提案を希望・要望として伝えたが、司会の先生から教科書における漢文教材は精選されつくしているから扱い方が変わったとしても中身は変わらないという見解を言われただけであった。半分その見解に納得しつつも、全国漢文教育学会を挙げて新学習指導要領下の漢文教育を先導していこうという気概をもって探究して頂きたかったテーマだっただけに失望があった。

 交流会全体は知識の浅い私にとっては非常に有意義だったが、考えの深まりという点で他の参加者にとっては今一つだったのではないかという感想を持った。予め与えられたテーマについてアンケートを取り、焦点化してグループで話し合うという形式でもよかったのではないか。また、司会の先生とグループの先生との話す割合が1:1であり、基本的に発言者と司会のやり取りに終始し、グループの先生同士で話すということが少なかったのが決定的にまずかったように思う。

 

交流会後の全体討論

 休憩をはさみ、全グループの内容の報告と全体協議に移った。当然のことながら全グループの報告はおおよそ似通ったものであった。上に示した交流会(第4グループ)において出なかっただけをかいつまんで示す。

第1グループ・・・国語総合と新テスト(現高1が直面する問題)、アクティブ・ラーニングとの対応、『こころ』『山月記』と漢文との接点

第2グループ・・・レベル差のある学級にどうアプローチするか、漢文を学ぶ動機付け

第3グループ・・・同じ教科を持っている教師との申し合わせについて

第5グループ・・・ICT活用、楽しみながら学ぶことと定着とのバランス

 以上から、①生徒の興味・関心にどのようにアプローチするか②足りない時間でどのように工夫するかについてを全体で討論した。

①生徒の興味・関心にどのようにアプローチするか

 第5グループの先生が、生徒にその日学んだ句形を使った漢作文・漢詩を創作させ、ロイロノートに提出させよいものを共有するといったICTの活用事例を報告なさった。他の先生は漢文への抵抗をなくすため漫画を活用していること、漢詩の英訳や中国語の漢詩朗読CDを活用していること、唐詩の読み書きで読み解く視点を与え歴史上の人物の書いた日本漢詩の批評や作者当てを取り入れていること、写真やDVDを見せ漢詩の風景を見せるといったことを報告した。私は大学院の授業で学んだ黄遵憲『日本雑事詩』が現在の「外国人から見た日本」ブームと符合しているため生徒が興味・関心を持ちやすいのではないかと発言した。生徒の興味・関心を喚起する題材・指導法を見出すためには、幅広い知見と学習者の適切な把握が必要だと司会の方が総括された。

②足りない時間でどう工夫するか

 交流会の内容と重複する部分が多くあった。年間指導計画を学校のインターネット上で共有しているため、前年の年間指導計画を下敷きにどういった指導ができるかを考えられるという私立高校の先生の報告があり、自分の赴任する学校もそのような体制が整っていればいいなと感じた。

 

おまけ

 同じグループに小石川中等教育学校に勤務されていた先生(現:筑波大学附属高等学校)がいらっしゃり、小石川の探究カリキュラムや国語科との関連について伺うことが出来た。それだけでなく1~5年まで持ち上がりで持たれていた時に実践された指導内容及びそこで行った活動や身に付けた技能についての資料をくださった。いろんな学年や教科を担当する(母校はこの体制)のもよいが、持ち上がりも魅力的である。灘は6年持ち上がりで、担当学年の教科は全て一人で担当するということをIBセミナーで聞いた。発表内容も素晴らしく、私の研究にドンピシャだったので質問させて頂いた。その後の懇親会でお声かけ下さり、名刺も頂いた。理知的でユーモアセンスもあり、さすが灘の先生は違う!と圧倒されたのは良い思い出。

井上 志音 - 研究者 - researchmap

頂いた資料を拝見させていただく限り、探究に必要なスキルの育成が随所に施されている私の目指すべき指導の具体だと感じた。有難いことに、今後私の研究に関わる実践記録等の資料をメールでくださるそう。その先生及び素晴らしい出会いに感謝である。

皆さん、学会・研究会に行きましょう!(余計なお世話)

全国漢文教育学会教育講座2日目①

 

hama1046.hatenablog.com

 先日に引き続き。

 

私の『論語』の教え方(影山輝國氏)

 影山氏は論語及びその注釈について研究している方である。非常に博識な方で、どの話も聞いていて心躍るような内容だった。

 そもそもなぜ日本人の古典として『論語』を学ぶのかの一つの答えとして、史実によれば応神天皇十六年(四世紀頃か)、百済から王仁がもたらした日本人が初めて見た本であったからということがあげられるという。この頃の本は竹簡であり、その竹簡が並んでいる形から「冊」の字が出来たとされる。この頃の本が貴重であったことは、この竹簡を台にのせている様子から出来た「典」からもうかがえるという。また、教科書編纂に携わっていたことから、高校の教科書における漢文の三本柱として、『論語』『史記漢詩を挙げ、これらはどの教科書にも必ず載っているという。このことから『論語』はその思想及び中国の文化がいかに日本に伝わったのかを見る教材としても価値があると指摘する。

 音韻史から「論語」や「孔子」は何と呼ばれていたかを資料をもとに紐解かれた。呉音読みならば「論語」は「ロンゴ」で「孔子」は「クジ」である。『源氏物語』胡蝶「恋の山には孔子(クジ)の倒れ」という言葉がある。漢音読みならば「論語」は「リンギョ」で「孔子」は「コウシ」である。桓武天皇の漢音奨励(延暦十一(七九二)年閏十一月の勅)によって、それまで普及していた呉音が漢音に切り替えられていく。(当時は隋や唐などの北部で使用された漢音が主流であり、当時学んでいた南部の呉音は通じなかったと遣唐使が伝えたからだとされる)ふりがなのふってある最も古い資料建武四(一三三七)年鈔本から江戸前期刊本『傍訓論語』は全て漢音のふりがなで書かれている。嘉永三(一八五〇)年刊本はふりがなが呉音であるが、「孔子」のふりがなは漢音の「コウシ」である。この話と合わせてなさっていた数字の読み方における呉音・漢音の話に移った。以下にそれぞれの読み方を示す。

(呉)イチ・二・サン・シ・ゴ・ロク・シチ・ハチ・ク・ジュウ

(漢)イツ・ジ・サン・シ・ゴ・リク・シツ・ハツ・キュウ・シュウ

今私が使っている数の読み方は呉音が多いのだと気付かされた。また、「よん」・「なな」というは「よっつ」「ななつ」という和語から砲兵隊によって作られたという話を初めて聞いた。(砲兵隊において聞き間違いは許されないため、紛らわしい読み方は変える必要があったそう)

 続いて『論語』の基礎知識についてのお話に移った。周知のとおり『論語』は孔子の没後、弟子や孫弟子たちが集まって編纂した言行録である。『論語』というタイトルは弟子たちが孔子の「語」を「論」じあって編纂したからだという。真偽はともかくタイトルについて全く考えたことがなかったので新鮮だった。また、漢代に『論語』は魯論(現在の二〇篇と同じ)・斉論(魯論「問王」「知道」篇が多い)・古論(孔子の旧宅の壁から現れた。古代の文字で書かれている。「堯曰」篇が「堯曰」「子張」の二篇に分かれる)篇数・内容も異なる三種類あったこと、後漢の末鄭玄が魯論をもとにして古論・斉論を考え合わせ現在の『論語』の原型を作ったことなどは今日初めて知った知識である。日と曰(口と舌の象形)は成り立ちの違いから字形の縦横の比率が異なるという教え方をすれば良いという豆知識も面白いと思った。現在の『論語』は約五〇〇章(約なのは学説によって章の分け方が異なり未だ確定していないため)が二〇篇にまとめられている。

 論語の主要な注釈書とその成り立ちの話も興味深かった。魏の何晏ら四名によって作られた所謂古注『論語集解』(シッカイと読む。入声音-フ・-ク・-ツ・-キ・-チ+p・t・k・sが促音化するため。国語学の講義が懐かしい)、宋の朱熹によって作られたいわゆる新注『論語集注』(同上の理由でシッチュウ)伊藤仁斎の『論語古義』荻生徂徠の『論語徴』が扱われた。『論語集注』は当時道教に対抗する思想として理・気二元論で論語を注釈したもので、それに対し『論語古義』は当時理・気二元論の考え方がないだろうとして孔子没後一〇〇年ごろに作られた『孟子』の言葉で解釈を試みた。『孟子』よりもさらに『論語』の書かれた時代に近い五経の言葉(用例を集めるという意味の「徴」)で解釈を試みたのが『論語徴』である。注釈書も既存のものに対する批判という発展の仕方があるということに気付かされた。同一章の注釈を扱って比較してみると面白いのかなと考えた。

 今回のお話で最も面白かったのは字の付け方や役割についてである。字の付け方に関しては「名字相応」「名字相配」という考え方があり、名と字は何らかの対応関係があるとされる。孔子は名が丘字が仲尼であるが、「尼」という字は孔子の母が「尼丘」という所に祈って生まれたことに由来する。名と字合わせて「尼丘」となるわけである。「仲」の字は次男につくことが多いものである。(長男は「伯」、次男以降は「叔」、末っ子は「季」を用いるそう。)子貢は姓を端沐(二字姓)名を賜という。名と字の対応は「貢」「賜」と対になるというものである。もし、私に字があれば「伯地」だっただろう。原則相手の名を呼び捨てにするのは失礼で同輩や後輩は字で呼ぶそうである。逆に名で呼ぶ場合は

①目上が目下を呼ぶとき

②自称するとき

③君主や師の前で他の臣下や弟子を話題にするとき(君主は基本名のみしか知らない。敬意は対する相手に対してのみでよいもしくは優先される)

④相手を罵るとき

⑤人に紹介するとき

だそうである。(実際は用例を基に検討したが省略)授業で扱えるかは別にして、こうした呼び方という視点で『論語』を見るのも面白い。

 『論語』の教え方に多くのヒントをもらった。力尽きたので交流会での議論は明日に回す。