高等学校学習指導要領のダイナミックな改訂に伴い、国語科のあり方についての議論が盛んになされている。中でも研究者による問題提起は価値があると思う。自身の立場に胡坐をかかず、現場の教員とともに国語科教育教育について考えていこうとする態度はやはりこれからの国語科教育に携わる者の胸を打つ。
【連続ツイート失礼します】過日、文科省サイトで「高等学校学習指導要領解説」が公開されました。なぜか東京オリンピックと紐付けられて始まる今回のカリキュラムでは、すでに報道も出ているように、高等学校「国語科」の授業を劇的に変えることが求められています。https://t.co/LrqQ63v5TH
— 五味渕典嗣@『プロパガンダの文学』(共和国)2018年5月発行! (@nori_gomibuchi) 2018年8月6日
日常社会(なんだかへんな言葉だ)で実際に使える「国語力」の養成を金看板に掲げた高校1年生対象の必履修科目「現代の国語」では何を取り上げ、高2・高3の選択科目「論理国語」「文学国語」では、これまでの教材をどう振り分けていくか。これらの科目といわゆる「新テスト」はどうかかわるのか。
— 五味渕典嗣@『プロパガンダの文学』(共和国)2018年5月発行! (@nori_gomibuchi) 2018年8月6日
「文学国語」では、生徒たちに小説などを「創作」させ、教員がそれを「評価」することが求められていますが、果たして現在の高校現場でそんなことが可能なのか。そもそも科目として「文学国語」を設置する高校がどれだけあるか? 結局、高校では古典以外の「文学」の授業はなくなってしまうのか?
— 五味渕典嗣@『プロパガンダの文学』(共和国)2018年5月発行! (@nori_gomibuchi) 2018年8月6日
すでに英語科や地歴公民科でも問題提起が始まっていますが、遅ればせながら、「国語科」でも、新しい学習指導要領/いわゆる「新テスト」とどう向き合っていくか、批判的に検証する機会をどこかで持ちたい! と考えています(まだまだ私個人の野望に過ぎないのですが)。
— 五味渕典嗣@『プロパガンダの文学』(共和国)2018年5月発行! (@nori_gomibuchi) 2018年8月6日
もちろん、いままでの高等学校「国語科」に問題がなかったわけではない。だからいまやるべきは、迎合や忖度でもなければ、全否定でもないと思います。今回のカリキュラム改訂をきっかけに、「国語の時間」とはどうあるべきなのか、もう一度ワイワイと意見を言い合う会、企画を考えてみるつもりです。
— 五味渕典嗣@『プロパガンダの文学』(共和国)2018年5月発行! (@nori_gomibuchi) 2018年8月6日
いずれこのアカウントでも告知をかけますので、微力ながら、「国語科」に関心ある多くの方々とつながっていきたいと思っておりますです。ご関係各位、どうぞよろしくお願いいたします!
— 五味渕典嗣@『プロパガンダの文学』(共和国)2018年5月発行! (@nori_gomibuchi) 2018年8月6日
五味渕先生が執筆された『高等学校国語科が大きく変えられようとしています』は必読である。
さて、表題の件に移るがここ最近は専ら「書くこと」について考えている。というのも、書く行為には内的な思考を外化させるだけでなく、思考を促す働きがあると考えているからだ。また、書くことの指導における形式と内容とのバランスをとることの難しさに頭を悩ませているからだ。
平成28年2月19日教育課程部会国語ワーキンググループ資料6のp.11『現行の高等学校国語科に課題と対応(案)』の課題2には、『話合いや論述など「話すこと・聞くこと」「書くこと」における学習が低調』とあり、この課題への対応策として授業時数や活動の増加だけでなく、これまで以上に「話すこと・聞くこと」「書くこと」の指導の体系性が求められることになるだろう。
日本国語教育学会全国大会の大学部会シンポジウムでは現状の教育(ここで国語科教育としないのは渡辺氏が国語科だけの責任でないと強調していたため)に「論じる」訓練が不足しているということと、パラグラフ・ライティングについて考えさせられた。
日本国語教育学会全国大会の大学部会シンポジウムでの見聞の詳細は上の記事を笑覧ください。
ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ
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データも交えてシンポジウムの内容をより詳細に書いているの上の本。
実際にパラグラフ・ライティングが書かれた文章が多いかというと、決してそんなことないよね、英語圏の論文でも。
— あすこま (@askoma) 2018年8月28日
実は今日、言語技術という授業科目でパラグラフ・ライティングを教える先生とお話してたのだけど、高大の文章教育に関心の高い人の中に「パラグラフ・ライティング信仰」みたいなものを感じる時があって、それは気になっている。
— あすこま (@askoma) 2018年8月28日
パラグラフ・ライティングであることと論理的であることはイコールではない。接続詞を使えば自動的に中身が論理的になるわけではないように。
— あすこま (@askoma) 2018年8月28日
パラグラフ・ライティングは、読み手の負担を減らすわかりやすい書き方だけれど、読者の興味をそそる書き方はしにくくなる。分かりやすさと、面白さと、現実の文章は常にそのせめぎあいなので、中等教育の作文教育のゴールをパラグラフ・ライティングに置くのにはあまり賛成できないかな。
— あすこま (@askoma) 2018年8月28日
パラグラフ・ライティングであれ、なんであれ、特定の文章ジャンルを中等教育の最終目標にすべきではないよね。「読み手の存在を意識すること」「自分なりの書くプロセスを身につけること」「書くことで自分の思考を深めること」とかがゴールになるべきだと思う。
— あすこま (@askoma) 2018年8月28日
あすこま先生の指摘と合わせて検討したいところ。現状パラグラフ・ライティングをゴールではなく、多様な書き方のうちの一つとして指導する必要はあるかなと。
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そんなあすこま先生も執筆されているのが上の本である。書き方をどんなに体系的に指導したところで、その活動が好きにならなければ意味のないものになってしまう。(この辺は古典の持つ問題と似ている)それにしても「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったものである。この本では、小学校の先生の熱心さとライティング・ワークショップの体系性と魅力(第12章まで)や中・高での実践の可能性(第13章・第14章)が見て取れる。書く経験は書く力の向上だけでなく、それを通して本および著者や作家へのリスペクトにつながり、最終的には生涯読書へとつながっていくのではないかと考えている。ワークショップ授業は実践したいことの一つである。
9/4・5に国立国語研究所で行われた言語資源活用ワークショップ2018に行ってきた際も、書くことについて考えさせられるポスターセッションがあった。言語資源活用ワークショップ2018でブログを書けなかったのは私の知識の不足によるものであって、内容がつまらなかったわけでは当然ない。しかしながらやはり最も興味を持つのは教育への応用研究である。私が最も興味を持ったのは『現職教員による児童・生徒作文の評価基準の分析』という発表だった。当発表内容の詳細は言語資源活用ワークショップ論文集に掲載予定のためそちらに譲る。小中の作文およびその評価が形式よりも内容を重視する傾向が強いのではないかという問題意識に共感した。また、教師による作文の総合評価と形式面の評価とには相関関係が見られ、この結果は教師の評価の妥当性と形式面の評価項目を形成的評価や作文指導に生かせることを明らかにするものだった。内容が良ければ、文章そのものの巧拙を問わないというのは情操教育の側面はいさ知らず国語科教育としてはやはり問題があるといえる。
上の本は現在読んでいる途中だが、著者の上野千鶴子氏もこうした面への批判している。
p.28-30に国語教育への言及あり。
— はまてん (@Hamaten61) 2018年9月7日
首肯しかねる部分もあるが、重要な指摘。
何はともあれ…
『なぜならあなたの立てた程度の問いは、あなた以前に、あなた以外のひとによって、とっくに立てられていると考えるところから研究は出発するからです。』(上野千鶴子『情報生産者になる』p.22)
— はまてん (@Hamaten61) 2018年9月7日
「より体系的な書くことの指導のためにどのような指導方法や内容があるのか」という問いもまた「とっくに立てられている」のである。また新たな探究が始まったのかもしれない。