虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

日本国語教育学会全国大会2日目の振り返り②

 

大学部会シンポジウム「国語科における論理的思考」

研究でも扱うところであるが、論理的思考の定義は難しい。そんな思いからヒントを得るために、この部会に参加した。

 

「論じる」を学習・指導のキーワードに(渡辺哲司氏)

 渡辺氏は本職は保健・体育科の教科暑調査官で、趣味として文章表現を探究している者だと自己紹介された。そんな言葉を額面通りに受け取った私は渡辺氏の発表内容に魅了された。それもそのはず、『ライティングの高大接続―高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ―』(玉川大学出版部)の著者であった。生協の書籍購買部で読みたいなと思いつつ、金銭面で断念した覚えがある。読まねば。

 

ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ

ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ

 

 

www.s-locarno.com

また、ロカルノ先生のこの書評も極めて参考になる。私も読み次第書評をまとめたい。

渡辺哲司のホームページ

輝かしい経歴の持ち主、また母校の元教員疑惑もある。(ヒストリー「C中学・高校で体力テストと双子の研究」)

 渡辺氏は大学での経験から、大学生がレポートを書けないこと、卒業論文のテーマ決めに苦戦することに問題意識を持っている。ここが探究の出発点だったと推察される。

 さて、渡辺氏は「日本の大学新入生はレポートを書けない」という問題が「要するに「高校までの訓練が足りない」こと」によると指摘し、反復訓練の必要性を説いた。ただ、「論理的に考え、表現する」力をつけるための反復は国語科だけで十分に達成されるものではなく、他教科の協力も必要であるとし、「それは可能、かつ、元来どの教科にとっても有益だ」と前述の文献にも示されたデータを参照して主張された。

 これを踏まえ、他教科の協力を得るうえで、国語科には「「論理的に考え、表現する」力を培うために学校で行われるすべての実践を、言葉のプロとしてサポート/リードする」役割があると主張する。やや私には荷が重すぎる気がするが、こうした役割を担うだけの実力をつけねばならないのだと背筋の伸びる思いがする。渡辺氏は先の主張に、「ここでいう「言葉」とは、言葉によって考え、表現するための技術全般」であると加え、「そこに含まれる事柄は大小多岐にわたる」が、「論じる」という語に収斂され得ると主張する。

 渡辺氏は「論じる」を「問いを立て、それに根拠をもって答える」ことと定義する。とりわけ、「問いを立て」る経験の不足が先述の問題を引き起こしていると指摘し、「論じる力」の育成に反復訓練が欠かせないと強調する。また、「論じる」を学習・指導のキーワードとすべき理由を

①シンプルな常用語であること

②内容豊かな語であり、一まとまりの概念を示し得る抽象性を備えていること

と述べている。「実際「論じる」は抽象的であるがゆえに、そこからいくつもの具体的な事柄を導き出せる」という点で一貫した教育を実現し得ると結んだ。

探究もシンプルに表せば、「論じる」ことに収斂される。探究を単なる思索ではなく、思索を他者と共有することとするならば、内容だけでなく形式を備えたものとすべきという主張に無理が生じないなどと自身の研究について考えた。

 

「論理」「思考」の意識化・自覚化―「実の場」の学習デザインを通して―(佐藤多佳子氏)

 佐藤多佳子氏は小学校の教員を経て、上越教育大学院で教鞭をとられている。

 佐藤氏は難波博孝氏の、「論理とは「理由」と「主張」のつながりである」「論理的思考力は理由と主張のつながりが適切であるか判断する能力である」という定義を引用して紹介し、さらに同氏の、文脈によってその解釈が変わるという考えを示し、国語科で扱う論理的思考は「送り手と受け手、何かしら主張をする自己とそれを聞く他者のコミュニケーションの過程とみなされるべき」と主張する。

 また、「コンテクストに照らしてことばや事象の関係や意味的なつながりを考えることを重視」するうえで、「実の場の課題解決的の過程」の学習デザインが必要であると続ける。「ことばを駆使して課題解決を図る国語科では、論理とレトリックの混同や這い回る課題解決を避けるためにも「論理」「思考」の意識化・自覚化が重要である」とし、そのうえで実の場に加え、自分の考えを説明する・他者の考えと自分の考えを比較する・評価する・自分の考えを修正するという「他者との相互作用的活動」の必要性を説く。実の場や他者との相互作用的活動によって「論理」「思考」の意識化・自覚化が図られ、次の学習・他の場面に転移可能な資質・能力と成り得るとし、その考えに基づく自身の実践でその有効性を示した。

 佐藤氏の発表は内容もさることながら、まさに理論と実践の双方から検討されているので、研究の参考になった。スライドに引用されていた井上尚美(2007)『思考力育成への方略―メタ認知・言語論理―〈増補新版〉』(明治図書)は読みたい・読まねば思う本である。(卒業論文指導の際、指導の先生から「読めば」と言われた本だったことを今思い出した)

 

思考力育成への方略―メタ認知・自己学習・言語論理 (21世紀型授業づくり)

思考力育成への方略―メタ認知・自己学習・言語論理 (21世紀型授業づくり)

 

 

国語科における「論理」の意味とその問題(松本修

 まず、松本氏が一貫して「論理と述べ方・順序とには原理的な違いがある」こと、「論理」がどのような意味で用いられるのかはっきりしないことを教科書や学習指導要領などの具体から明確に述べていたのが印象的だった。

 松本氏は小学校低学年の教科書にある文章の分析を例に「説明文の読みにおいて、教育内容が、順序などではなく順序などではなく情報の構造的な関係・説明にあること」を確認し、「国語教育で言われる「因果関係」が論理学などで言われる因果関係よりはずっと幅広い」ことを指摘する。そこで先述の井上氏の書籍において示された

①情報の中身がホントかウソか(真偽性)

②考えの筋道が正しいか正しくないか(妥当性)

③情報はどの程度確かであるか、また、現実と照らし合わせて適当であるか(適合性)

といった言語論理教育で判断できるようになるべき三点を挙げ、因果関係については「本当に原因と結果と言えるのかということよりも、真偽性・妥当性・適合性を満たせば論理的であるととらえるべきであるということを優先する」と述べる。そのうえで、「国語教育における論理をコミュニケーションの問題と捉えず形式的な論理と混同するという誤り」を正し、「真偽性・妥当性・適合性をコミュニケーションの問題として確かめることそのものが意味内容を伴う論理の学習」と考える必要性を主張した。

 興味深かったのは大学3年時に行った教育実習でも扱った「トゥールミン・モデル」がもともと非形式論理から生じたものであり、それを形式面から非難するのはナンセンスだということだ。松本氏によれば、どこにどのような情報が入るのかというよりも、あえて分けることで論理を見やすくするという意味で学習する意味があるのである。当該授業が中学校第二学年読むこと「ウ 文章の構成や展開,表現の仕方について根拠を明確にして自分の考えをまとめること。」であり、この力を身に付けさせるうえでトゥールミン・モデルによる論理の可視化と妥当性の検証が有効に働くのだと松本氏の指摘で気づかされた。(なお、実習後もその意義を薄らぼんやりとしかわかっていなかった)

 

質疑応答において、文学批評こそ論理的思考の育成に資するのではないかという議論があった。説明的文章は真偽性・適合性の検証において、国語の範囲を逸脱しやすいという欠点があり、文学はテクストの言葉をそのまま根拠とすることができるからだそうである。このことは後述の酒井雅子氏も主張している。世界では国語に相当する科目として文学をしえている国が多いのはそのためかもしれない。なお、IB「文学」は文芸批評の力を伸ばす科目であり、国語科における文芸批評及び探究を学ぶ際に有効なのではないかと最近考えている。

 

 

単元学習実践研究発表会第五会場

 

言語文化に親しみ,協働的コミュニケーション能力を育む卒業単元の創造―「君に届け この言葉」の授業実践を通して―(藤嵜啓子先生)

 

 当該実践は前任校の中学三年生に対して行った「言語文化を生かした,協働的コミュニケーション能力」の育成を目指した三年間のカリキュラムの締めくくりに当たる卒業単元である。特筆すべきは、総合学習で「落語」「地域の民話」「能」「狂言」などの言語文化を扱い、国語科との連携を密に行うといったカリキュラム・マネジメントを行っており、こうした学習の蓄積が卒業単元に結実し、高校からの学習の起点と成り得る点であろう。以下に単元の概要を示す。(発表資料参照)

 単元は全9時間扱い(国語8時間、総合1時間)である。第1次(2時間)では教科書における言葉について扱っている学習材を読み、言葉について考え、第2次(3時間)では「心に響く言葉」を読書活動・インターネット・歌詞・映画の台詞などの多様な方法で「言葉のノート」に集め、そこから紹介する言葉を1~3つに絞り、「君に届け この言葉」の作品作りを行う。なお、「君に届け この言葉」はA2の用紙1枚を本(リーフレット)の形にしたものである。「君に届け この言葉」という共通の題名の横に、どのような相手に読んでほしいか、あとがきには「言葉」について思い思いのことを書くことが特徴といえる。第3次(国語2時間、総合1時間)は心に響く言葉をグループ・代表者による発表形式で紹介する。発表によって他者の言葉に触れる協働的コミュニケーションが生じる。作成された作品は公民館・学校図書館で展示される。このことによる自分の作品が読まれるという意識が、作品の質を高めているともいえる。

 作品に選んだ言葉やあとがきからも、当該実践を通した学習者の「言葉」に対する考えの深まりがうかがえる。

 

思いや考えを届ける―創立70周年昭和中学校のCMづくり―(植田恭子先生)

hama1046.hatenablog.com

このブログでも紹介した植田先生である。昨年度まで勤務なさっていた昭和中学校は大阪市教育委員会「学校教育ICT活用事業」の先進的モデル校であり、当該実践はそうした環境を十分に生かした実践である。単元の概要を以下に示す。

 第3学年を対象とした全7時間扱いの単元で、学校図書館での授業。

1時間目(課題設定)・・・教科書教材「メディア・リテラシー」(菅谷明子)を読み情報社会に必要な力を考える。今までの学習を基に情報活用能力を定義する。単元の見通しを持つ。

2時間目(情報の収集)・・・様々な広告に触れ、広告の言葉を学び、資料を活用しつつ昭和中のキャッチコピーを考える。

3時間目(情報の編集)・・・「絵くんとことばくん」(天野祐吉)の読み聞かせを聞き、作成したキャッチコピーが心に届くものかを再考する。各自で作成したキャッチコピー、届けたい思いや考えをグループで伝えあい、それを基にグループでキャッチコピーを作成する。「関西の言葉遊び 生きてますか」コラムニスト天野祐吉さんに聞く(2008年1月26日付朝日新聞朝刊)を読み、天野さんのいう音、俳諧的しなやかさを意識させる。

4時間目(情報の編集)・・・キャッチコピーを核にしたCMづくりにすること、どのような思いや考えを届けたいのかについて確認する。どのような動画を作成するのか各自で考え、そのアイディアを基にグループで絵コンテを作成する。

5時間目(情報の発信)・・・グループでCMを作成する。

6時間目(振り返る)・・・作成したCMを相互評価する。

7時間目(振り返る)・・・「言葉」のもつ価値について考え、情報社会を生きていくうえで大切なことは何かを話し合う。改めて「情報活用能力」について定義する。

 

 当該実践の優れている点として、この実践の前にも動画を作成する単元を複数回行うことで積み重ねを綿密に行ってきた点、CM作成という言語活動が相手意識を持った発信(送り手体験)に資するものであり、相互評価も行いやすいという特質を持っている点、創作を通して単に文章を読んで考えるより深く「ことば」「情報」について考えられる点などが挙げられる。情報活用能力も非常に重視されており、田近洵一氏の「自立と共生の行為としての自己学習行動」(1998)を基にルーブリックを作成していた。

 植田先生は授業者として自分の力で問いを設定する生徒を育てたいという思いを語っており、そうしたスタンスに非常に共感した。また、当該実践以外にも探究を重視した実践を多数行っており、現在それらを形にしている最中だそうである。お目にかかれることを心待ちにしたい。

 

 余談であるが指定討論者と司会を務められた酒井雅子先生にご挨拶がてらご著書の『クリティカルシンキング教育:探究型の思考力と態度を育む』を読んでいることと私の研究が探究と国語科との関連であることをお伝えし、お話を伺った。すると、

何たる奇遇、名刺も頂き充実の学会終わりでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本国語教育学会全国大会2日目の振り返り①

今日も日本国語教育学会全国大会における学びの振り返りを行いたい。

 

校種別分科会18 高等学校(書くこと)

 

「表現することへの意欲を高める指導について」(岸田潤子先生)

 岸田先生は昨年度高校の非常勤講師として1年間勤務した際に行った実践を経験をまとめていた。それ以前に小・中の教員を30年ほど経験していたため(割合は1:9)、その経験を生かして徹底的に生徒の実態から実践を行っていたのが印象的だった。まず、岸田先生は生徒の言葉の持つ力に関する関心の薄さや聞くことが不得手である実態を捉え、百人一首を行った。百人一首という教材の選択は、学習者のほとんどが小学校時代に行っており、聞くことの必然性が伴うという理由からであり、この判断は生徒の学習歴の活用を重視していた岸田先生ならではのものと思った。聞くことのできる状態にしてからは、「あなたの好きな音楽を紹介しよう」「俳句を詠もう」「自分の感性でポスターを作ろう」などといった書くことの実践を積み上げ、表現することの意欲を高め、4月当初何も書くことがなかったKという生徒が3学期期末テストの解答用紙を埋めるまでに変容した。

 この実践に関しては2点質問し、回答いただいたので以下に示す。(※言うまでもないが、メモ書きと記憶を頼りに作成しているため、正確なものとは言えない。要点の参考までに)

①書くことのテーマ設定のために学校図書館を積極的に活用なさっているが、そうした指導の際に工夫していることは何か。→学校図書館の活用はとにかく生徒に言葉や文字に触れさせる経験をさせたかったためである。その際に取り立てて指導することはしないが、司書の方と協力して必要な書物をまとめたブースを作り、その中から選ばせるようにした。時には県の図書館にも協力いただいた。

②形式としての書くこと指導としてはどのようなことを行ったのか、小中高の学習の系統という視点から教えていただきたい。→取り立てて指導しておらず生徒に任せている。というのも小中の先生方の熱心な指導により書く力はすでについていると考えられるし、全てを網羅的に指導しようとするには授業時数が足りない。また、形式の指導は授業者が書いてほしいものを要求しているといえるし、何より生徒の表現したいという意欲をそぐことにつながりかねないと判断し、表現することの意欲を高めることを主眼においた。

学習者に意欲がなければ、授業者がいくら手を尽くしても残るものはほとんどない。どうもスキルの指導に走りがちな私に、意欲をどう高めるかについての示唆を与えてくださる実践だった。

指定討論者の鈴木一史先生(中学時代に国語(表現分野)の授業を受け持っていただいてたという贅沢)はARCSモデルについて紹介しつつ、当該実践の価値づけを行っていた。

Attention(注意)導入の工夫などがこれに該当する。学習場所などを少し変えてみることなども有効だそう。

Relevance(関連)「高めたい意欲」として「小中学校での学びを生かそうとする意欲」が挙げられていることにまず価値がある。自己と学習をどのように結びつけるか。

Confidence(自信)「やればできそう」

Satisfaction(満足感)次の学びに向かうために正当な評価が求められる。

個人的にRelevanceをもともと重視していたのでこれでよかったのかと思うと同時に、他の要素に関してもどのようなアプローチがあるか検討しなければと感じた。

同じく指定討論者の田中孝一先生は評価について主に述べていた。学校の実態に合わせて教科の達成すべき目標を再設定して、その達成度を測るものが評価であること、評価の妥当性を証明するものが必要であるということおっしゃっていた。

テスト以外の多様な評価方法を取り入れたいと考えているが、その際の妥当性(下した評価及び評価の仕方自体)の保証についても学ぶ余地があると気付かされた。

また、フロアの質問を踏まえ、田中先生は実践における書くテーマが自分ごとにより過ぎていたことを指摘し(岸田先生の考えによれば、まず自分を出発点にするという意識があったそうである)、今後の学習を考えると相手・目的意識を持たせる実用文の指導へと展開することが望ましいのではと提案された。

実用文を書くことは必要だが味気ないとも感じていたのでとても新鮮な指摘だった。

当該実践は兎にも角にも学習者の実態に寄り添ったものであり、生涯表現に向かう意欲を持ち続ける生徒育成に資するものだったと考えられる。

 

「高等学校国語科単元学習に資する学習材を求めて―「興味・関心」を喚起する仕組み」(田中慎一朗先生)

発表の前半は単元学習を行いたいものの、進学校の性質上周囲の教師も、また生徒も求めていないという現状を滔々と述べており、正直なところ「何を聞かされているのだ」と思ったが、こうした苦悩を抱えている先生も多くいるのだろうと身につまされる思いだった。また一方でこうした苦悩を抱かずに旧態依然の姿勢を貫く幸せな教師もそれ以上に多くいるのだろうと思い、自身が今後どのような現場につくのかと不安になった。発表の後半は「妙なる屍」(たえなるかばね/カタヴール・エクリキ)というフランスのシュールレアリストが考案した言語遊戯から着想を得た学習活動の実践報告だった。学習活動「妙なる屍」の概要を以下に引用する。

・空白のA5サイズ(A4サイズを半分にした大きさ)の用紙を配布する。

・その用紙に思い付いたまま「何か」を記入する。(書かれたものを集めて「詩」を作

 ることを口頭で説明した)

・教室の座席順で各列最後尾の者が用紙を回収する。

・最後尾の者は、集めた用紙に書かれ内容を見ずに混ぜ合わせる。(この作業は割愛し

 てもよいことを口頭で伝えた)

・各列で回収した用紙を1枚1行で黒板に板書し「7行詩(列によっては6行詩)」とし

 て発表する。

・学習者は自分の列の作品をノートに写し、その詩に題を付けた上で解釈を試みる。

ワークシートの分析や生徒の反応から、「妙なる屍」がが学習者の「興味・関心を喚起する」学習材として適していると結論付けている。

フロアの意見として、一斉講義型の学習もアクティブになる可能性があるとしつつも、自分で考えるというアクティブさは欠落しやすいためやはり何らかの外化が伴う必要がある、関連の無い文字列に題を付けることは抽象的思考の学習としてよいだろうなどがあった。

鈴木先生は倉澤栄吉氏筆者想定法の「読解と表現の握手」という言葉を引き、自分が表現することで書き手を分析するという手法を紹介なさった。

田中先生は教材化のためには目標とする力の想定と関連が必要であること、ただ興味・関心を喚起するだけでなく、目標に応じた興味・関心の喚起が必要だと指摘なさっていた。

「妙なる屍」は無から有を創出するもので、利用価値があると思い、実践に生かしたいと思った。

 

少々長くなってしまったので、大学部会のシンポジウム等については明日述べたい。

日本国語教育学会全国大会1日目の振り返り

当学会会長田近洵一氏の「総括と展望」によれば、振り返りは単にメタ認知を促すものでなく、未来の学びを開く生産性を持つものだそうである。このブログにて振り返りを行い、未来の学びを開く契機としたい。

 

基調提案(鳴島甫氏)

主に『「主体的・対話的で深い学び」を実現する単元学習』という当会の副題について中央教育審議会答申や指導要領を適宜引用しつつ説明なさっていた。『児童生徒一人一人が興味関心を持つ「実の場」作りをし、その中で学習活動がなされるように考えてきた』『単元学習が形式に流されさえしなければ、「主体的・対話的で深い学び」は当然のように実現されてきていたのであり、「なにも今更」という感が否めないのである。』という言葉は、単元学習が「主体的・対話的で深い学び」を実現し得るものであることを端的に示していると思った。

 

『色彩語の秘密をさぐろう』(筑波大学附属小学校 青木伸生先生)

まず、800人ほどの観客を前にして伸び伸びと学習していた筑波大学附属小学校の児童の姿に驚かされた。語彙指導における『色彩語』という切り口の有用さに気づかされた。語彙の量を増やすことだけでなく、もともと持っている語のイメージをより豊かにすることも語彙指導である。学習活動はマッピングによる色のイメージの可視化、過去読んだ文学作品を色彩語で振り返る、色彩語について授業者が論じた文章の読解、詩作、詩のボクシング(二人の児童が自作の詩を朗読し、どちらの作品が良いか全体で判定する活動)と盛り沢山であった。詩を作るなど創作を行うことで色彩語の機能をより深く理解できると思った。協議において甲斐先生が提案していた、色彩語の用例を集め分析する単元も中高において有意義な語彙指導になると思った。

 

『批評の心が生まれたとき』(港区立赤坂中学校 甲斐利恵子先生)

まず、中学生の様々な思いを問いを立てて明確にし、批評文を書くことで形にしていくという単元の設計が見事だと思った。問いを立てて考えることは規模の大小は別にして探究であり、国語科における探究の可能性を見ることができた。本時は一つの班の話し合いを中心に授業が行われた。また、授業の進め方から、全体で一人の問いについて検討することで、問いや批評の進め方に多様な切り口があることを各々が認識し、今後立てる問い及び批評文の質を高めることが出来ると気付かされた。生徒の振り返りにもあったが、一人の視点による批評には偏りがあるため、問う切り口の多様さに気づく協働を当授業のように組み込むことは有効であると思った。批評の語彙として「そもそも」(前提の検討)「確かに」(反対意見の想定)などを取り立てて指導していたのもよいと思った。探究と国語科の関連を考えるうえで、探究的な思考を促す語彙の指導にも注目したいと考えていたので示唆的だった。私も自身の研究の成果を織り込みつつ、ぜひ実践したいと思える授業だった。

 

総括と展望(田近洵一氏)

様々な側面からお話されていたが、「何故単元学習か」という問いに、「actualな学びの主体者として活動させたい」という教師の願いがあったからという一つの答えを示されたのが最も印象的だった。学び手の側からの教育である単元学習が、これからの時代の教育の潮流にも合致するものであり、ひとまず教室において追及すべきものだということを再認識した。

 

二日目は「実践にふれて学びあう」とのことである。

 

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 前回の記事に書いた通りに回り、見識を広めたい。

平成最後の夏の予定

平成最後の夏の予定(前半戦) - ならずものになろう

ロカルノさんのこの記事に触発されて。

生活のためのバイトは最小限に抑えつつ、基本的には研究に勤しもうかなと思っている次第。

 

 まずは、研究に関わりそうなこの本を最優先で読み進める。

 

日本国語教育学会全国大会

今年も行きます。二日目は17分科会(高校・書くこと)→大学部会シンポジウム→第5会場と回る予定。

17分科会:書くこと重視の流れや探究と書くこととのつながりの強さから選びました。     中学の時に授業を受けていた鈴木先生も指定討論者でいらっしゃる。あまり調べ切れていないが、同指定討論者の稲井達也先生も探究なさっている・・・?

大学部会シンポジウム:「国語科における論理的思考」という表題に心を鷲掴みにされた。結論は出ない気もするが何らかの示唆を得られたら。

第5会場:中学の部会であろうと思われるが、実は「探究と国語科部会」なのではとの期待に胸を膨らませている。というのも、発表者の一人、植田恭子先生は『中学校国語科における探究的な学びの実践と研究』で昨年度の博報賞を受賞されている。

植田恭子(第48回)|過去の受賞者|博報賞|博報財団

現在は定年退職され、都留文科大学の非常勤講師をなさっているそうだ。我が研究の先駆けともいえる実践から多くを学びたい。なんと司会者の方は、先ほど扱った本の著者酒井雅子先生である。出来ればこの日までに本を読み意見交流ができればと考えている。

 

日本文学協会国語教育部会夏期研究大会

私は文学を主戦場にするタイプの実践者にはなれないだろうが、いったい彼らがどのように国語科教育にアプローチしているのか気になったため参加を決めた。研鑽のためである。

 

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 この回でも扱った『教室における読みのカリキュラム設計』において、文学と探究の親和性を感じたことも一つの要因であろう。余談ではあるが、国際バカロレアは文学と探究という面で非常に示唆に富んでいる。

 

第34回漢文教育研修会教育講座

私は漢文を(以下略)。漢文を勉強したいと思ったのは、大学院での講義によるところが大きい。嫌いだったわけでは勿論ないが優先度はさほど高くなかった。日本漢詩文の存在や中国から来た人が日本のことを表現した漢詩文など、身近にあった漢詩文の存在を講義によって知ったのだ。それに伴って、古典として親しまれてきた漢文にも興味が湧いてきた。最近の関心は板垣退助作『咏史』の出典である。

咏史(板垣退助) – 日本の漢詩文

何故このことに関心があるか、理由は二つ。

①私好みの、平家物語「忠度の都落ち」を題材にしたものだから。

②自身が板垣退助の来孫にあたり、彼の残した著作を教材として扱いたいから。

その障壁は、先のサイトが出典を明記しておらず、連絡手段も先のサイトに存在しないことである。困った…。何かご存知の方はご一報ください。

 

ディズニーアカデミー体験会

同列に扱っていいものなのだろうか。いや、学びの場なので問題ない。正直これに当選したことがここ最近で一番うれしかったことである。ひそかにDIE(Disney In Education)の実践を構想している身としては、なんとも言い難い喜びがある。2時間半、ホスピタリティについて学ぼうと思う。

 

以上がフィールドワークの予定である。研究面では、研究の目的と概要や「探究」に求められる資質・能力の定義などの再整理、教科書分析などを行う予定である。高3同様一番伸びるのが夏休み、決意新たに頑張るぞ。

 

【書評】古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』

久々に丸一冊本を読みきった。

 

国語の授業の作り方: はじめての授業マニュアル

国語の授業の作り方: はじめての授業マニュアル

 

 「読みきった」というのは内容をしっかりと理解したという訳ではなく、ひとまず読了したということである。普段は情報収集のための読書で一部始終読みきることは稀である。内容をすべてしっかりと理解するのは現場に出てからなのだろう。現場に出てからも著者ほど深く物事を考えられるのだろうか。折に触れて再読しなければ。

 

著者、古田尚行先生との出会い

古田尚行先生を知ったのは、「『古今集』と『伊勢物語』の想像力―「二条后物語」を軸にした授業―」がきっかけだったように記憶している。当時『伊勢物語』を研究していた関係でこの論文の存在を知り(アクセスはできなかった・・・)、『リポート笠間』60号の原稿、ブログ、twitterと辿って行ったのだった。言わば追っかけである。

勤務校の公開研究会にもお邪魔し、私が古田先生を知るきっかけとなった論文を所収する『国語科教育研究紀要』も直接頂けた。お仕事の関係もあり、あまりお話出来なかったのは残念だったが、そのわずかな会話の中に古田先生の教育観の一端が伺えた。

(公開授業後)

古田先生「授業はどうでしたか?」

私「緻密に準備されていて、生徒の思考が促されていると感じました。良い授業を見させてもらいました。」

古田先生「ただ少し…彼(当該授業の授業者)は喋り過ぎですね…。」

ボイスレコーダーを用意していたわけではないので、曖昧な記憶であることをご承知いただきたい。ただ、この言葉で先ほどの授業の主役は誰だったかと考えた時にその答えは授業者であると気づかされた。

 

私の感じた本の良さ

何事においても良さを語るのは難しい。それは文学作品の主題はこれ!と言われた時に生じる作品の矮小化と似たことが起こりうるからだ。私の語ることは無数にある良さの一隅を照らしたものに過ぎないことを予めご理解いただきたい。

まず、特色としてあげられるのは引用・参考文献や文献ガイドの多さ・多様さであろう。同じような本に今まで出会えていないので、一概に特色と言い難いがこの著作を読むと国語教育(ここではあえて「国語教育」としている。参考p.149-153)様々な分野に関心が及ぶ。文学や古典をはじめ、他者や特別支援、母語などなど実に複雑な要素が絡んでいるのが国語教育なのだと気づかされる。本を読んで国語教育について勉強したいが、何から読み始めれば良いか分からない!という方にお勧めの本である。(読みたい本が多くなりすぎている私にとってこの本は沼です笑)注だけでp.273-317。

安易なところに収斂せず、拡散していく良さがあるといえそうである。

次に、論が抽象的過ぎず、面白い具体例が多数あることを挙げたい。全体の構成で言えば、6章 事例篇が全体に与える影響のようなものが、どの文にもみられるということである。おすすめは、p.123(■聴き手をどう意識するのか)における具体例である。この本に向かう行為は間違いなく「読む」なのであるが、具体(古田先生と他者とのやり取りや教室の風景)が見えるのである。何を言っているのだろうかと思ってこのブログを見ている方はぜひ読んでみて頂きたい。読んだうえで何を言っているのだと思った方がいた場合に関しては申し訳ないと言うより他はない。

 

最後に

この本を読んで二つの夢が出来た。一つ目はこの本で読書会を開くことである。この本の良さの一つに拡散性があると思う。この本を読んでどこが琴線に触れたか、どのようなことを考えたのかについて交流したいのである。二つ目はこの本のような本を書き上げられるほどに自分が実践を積み上げることである。私の指導教員はよく行ったことを形にせよとおっしゃる。形にすることで自分が再読でき、また読者がいれば何かの助けにもなるからだと理解している。著者プロフィールによれば古田先生は修士課程を修了して10年目でこの本を書いている。10年目に私もこれほどの積み上げができるよう今から研鑽を積みたい。

目標を振り返って

 大学院に入学して3か月が経過した。大学院の講義は人数の関係もあってか、大学の時よりもきめ細やかで、当然のことながら質も高いように思われる。そんな講義は一日に一つあるかないかで、もっぱら本を読んだり、考えを巡らしたりする日々を過ごしている。また、院生という立場を生かし、学会には積極的に参加するようにしている。数年後学会に貢献できるような実践者となるビジョンは未だ見えていない。先は長い。努力、努力の日々である。

 ここでひとまず正月に立てた目標を振り返り、今後に向けての方向性を見いだしたい。

 

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①年間50冊本を読む。

読了こそ少ないが、並行して読んでいるものが多く常に何かしら読んでいる状況である。そんな中でも八田幸恵氏の『教室における読みのカリキュラム設計』はやはり読んでおいてよかったと思える著作だった。

 

教室における読みのカリキュラム設計

教室における読みのカリキュラム設計

 

 

特に2章における渡邉久暢氏との「こころ」を教材とした共同実践研究は「探究」と国語科との関連ってまさにこういったところにあるんだよなぁと目指すべき方向の正しさを再確認するとともに感嘆しながら読んでいた。研究者と授業者が同じ方向を向いて研究する真の教科教育学研究を見た気がする。こんな実践がしてみたいものだ。

 

修士論文の骨組みを作る

現在は卒業論文から継続して「探究」に求められる資質・能力について、文献や実践を調査している。この夏はそれと並行して教科書分析を行う予定である。様々な話を見聞きするにつけ、中学校はともかく、高等学校は教材の力が強く、言語活動を通して資質・能力を育成するという感覚に乏しいように思われる。無論言語活動と資質・能力の育成が直線的に結びつくわけではないが、VUCAの時代といわれる昨今、やはり「今まで通りの国語科」ではそれに対応出来る生徒の育成にとって役に立たないどころか足手まといである。月並な言い方ではあるが、国語科の全てを変えるのではなく、良い部分を発展させ、見直すべきところは見直す必要があるのだ。一年半後に提出するのは、一介の大学院生が書いた修士論文である。しかしながら私なりに「探究」的な国語科のあり方を模索し、提案性のあるものにしていきたい。

 

③京都に行く

6/29に行われた第20回京都市立堀川高等学校教育研究大会に参加し、ついに人生初の上洛を果たした。公開授業や教科の研究主題は期待していたものと異なっていたのが少し残念ではあったが、「自立する18歳を育成」するという目標に学校一丸で取り組む気風が伝わってきて、夜行バスに揺られて来た甲斐があったと思った。こういった職場に巡り会えるよう、また必要とされる教師になるよう尽力したい。一泊して翌日念願の京都観光をした。ここに関してはあまりプランを立てず、行き当たりばったりであった。が、市内や宇治、金閣寺を巡ることが出来たためひとまず、満足である。桜や紅葉の季節にも違った趣を見せるそうなので、また折を見てゆっくりと観光したい。

 

2018年の目標

一年の計は元旦にありということで、今年の目標をここに掲げたい。元旦は元日の朝を指すので、厳密に言うと今目標掲げることは間違いである。が、細かいことは気にしない。

 

①年間50冊以上本を読む

1週間に一冊読めれば余裕で達成出来る目標であるが言うは易く行うは難し。本を読むスピードは遅くはないが何かにつけて後回しにしがち。国語にまつわるものでもそうでなくとも自分のセンサーに引っかかるものはガンガン読んで吸収していく習慣を身につけたい。

 

修士論文の骨組みを作る

2年間研究に勤しめる期間を得たので、その期間を存分に活かしたい。その為1年目は取れる必修科目を全て取りつつ、修論の骨組みを作り上げることを目標とする。やるからには書き上げた修論が自分の実践の屋台骨となる理論になるようにしていきたい。

 

③京都に行く

実は未だに京都に行ったことがなく、今は憧れのみが先行している状態である。本場の抹茶を味わってみたい。探究科のある市立堀川高校の公開研究会に行ってみたい(修論関係でもある)。今の教育を先導している先生方の多く所属している京都大学を訪れてみたい。碁盤目の街や宇治を散策してみたいなどなど。何事も経験なので粛々と京都旅行の計画を立てていこうと思う。

 

現古漢それぞれの勉強や教員採用試験の勉強、プライベートについても諸々挙げたいが上記の3つをしっかりと達成し、憧れの教師像およびキャリアプランに少しでも近づけるよう執念を燃やしていきたい。(今年も阪神のスローガンとかけて笑)