ネガティブ・ケイパビリティと〈探究〉・文学について
青国研という研究会に所属している。このような状況で年内の例会は見合わせという悲しいお知らせがあったが、メールでの近況報告など緩やかに繋がることが出来ている。青国研に学ぶ優れた先生方は優れた本を読んでいる。たまに読んでいる本のセンスを褒めて頂くことがあるが、基本的に尊敬する先生の読んでいる本を聞き出し、後追いで読んでいるだけである。そこでこの本をおすすめされた。
「拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐えぬく力」(77頁)
表題にある「ネガティブ・ケイパビリティ」は本書において様々に言い換えられているが、個人的に分かりやすいものを上に引用しておく。
この「ネガティブ・ケイパビリティ」は〈探究〉によって身につく態度(≒力)ではないかと思う。この概念が詩人キーツによって初めて記述されたことからも分かる通り、「ネガティブ・ケイパビリティ」を身に付ける上で詩作のようにじっくり時間をかけて物事に向き合うことが重要である。現在が「宙ぶらりんの、どうしようもない状態」だからこそ、小6には詩の創作、中3にはコロナ禍と社会について考える問いを立てさせ、それを考える文章を書くことを課している。
教育について語る「第九章 教育とネガティブ・ケイパビリティ」は完全に首肯できないものの、示唆に富むものだ。「答えの出ない問題を探し続ける挑戦こそ教育の神髄」(191-192頁)と述べているが、これはあくまで学びの神髄であり、教育=学びではないというのが簡単に述べられる首肯できない点である。教育は学びに向かうものであるべきだとは思うが、常に学びとイコールかというと疑問である。
この本で紹介される文学も魅力の一つ。
キーツの「輝く星」の情熱的な調べはお気に入り。
輝く星よ!もし私があなたのように不動なものであるなら
夜のしじまの中に、孤独に輝きを放っていない
二つの瞼を永遠に開けて、あたかも自然の我慢づよい、眠りを知らない保護者の如く、見つめるのだ
朝は司祭の仕事のように
純なる洗浄を 地球の人々の岸辺に水をやる
あるいはまた 山や原野に積もった雪に新たに柔らかく雪が降って仮面となったのを見つめている
いや、まだ依然として確固たる、決して変わらない
私の可愛い恋人の熟しかけた胸を枕に
その柔らかい呼吸の上下を感じつつ
甘い不安の中で、永遠に目覚めながら
静かに静かに、彼女の優しい息づかいを聞こう
そして永遠に生き、さもなければ気を失って死のう
花散里を主人公にした短編「源氏の君の最後の恋」も切なく美しい。
「ネガティブ・ケイパビリティ」 概念発見の経緯や著者自身の医学的な面での解説などさまざまな内容が盛り込まれている分色んな人に刺さる読み応えのある本だと思う。
読んだ方は是非感想聞かせてください。