虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

【哲学対話体験記】なぜ「生活のパートナー」と「セックスのパートナー」は同じ人であるべきだとされているのか?

【なぜ「生活のパートナー」と「セックスのパートナー」は同じ人であるべきだとされているのか?】という問いで、嫉妬は、現状維持を脅かすものに対する人間的な本能なのではないかという話になって、おおすげー、なるほど!ってなった。近しいものに対してするっていう嫉妬観が更新。まさに概念の洗練。

 

本日の哲学対話を通じての感想ツイート。「概念の洗練」という言葉は土屋陽介先生のこちらのご著書から拝借した。

 

 

哲学対話について語り、聞き、考え、問う場であるという言葉があった。まさしくその通り。哲学対話は論破を目的とした議論の場ではなく、多様な価値観を持った者たちが語り、聞き、考え、問う共生の場である。

 

頭の中に残っている発言を並べておくので、是非読者の方にもこの問いについて考えて欲しい。発言は順不同。

 

「生活のパートナー」を自然と結婚相手と読み替えていた。結婚って必要?

「生活」には制度と気持ちの側面がある。

人間は居場所を求める。

有限さはお金についてだけでなく、時間や気持ちについても考えられるものであり、その捉え方は人によって異なる。

聞いていて分からなくなったのでもう少し、もう一度考えを聞きたい。