虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』読書会学びのおすそ分け

  去る3月16日念願の第一回読書会が開催された。私の日取りが悪かったのか、参加できないが是非行きたかった!というご連絡は直接間接問わずたくさん頂いていた。

 そんな方々のために今回の記事では参加された方の素敵な感想と並べて際立つ私のしょうもないツイートでお茶を濁さずこれぞというものはピックアップして伝えできれば幸いである。

hama1046.hatenablog.com

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  自己紹介を一回りした後、古田先生から話題提供して頂いた。そこで軽い模擬授業のようなものもやって下さり、著者古田尚行の背景の一端に迫れる非常に有意義な時間であった。

 まず、事前に参加者から頂いた意見・質問を基にお答えを頂いた。

「主に、このリスト作成にあたって意識されたことや、リストをどのように活用されることが望まれているのか、また読書会に参加される方が、文献リストに向かった時にどのような感想をお持ちになったのかなどを深めたいと思います。」(葛西先生)

→教師の手の内を明かすこと・共有されることが望ましいと考えている。大学生用に難しいところはカットしている。(古田先生は「手加減してます」とおっしゃった。)

 感想の記事で言及したバフチンフーコーアレントの思想がいわば古田先生の手の内であり、授業構想の柱なのだろう。

「先日のシンポジウムで、古田先生から生徒に教えたいことが先にあって、テキストを選ぶという趣旨の発言があったが、生徒に教えたいこととは、例えばどのようなことか。」(rofu先生)

→「生徒に教えたいこと」すなわち国語の力ではない。目の前の生徒あるいは我々が「何について考えなければならないのか」がこれに当たる。

 このことについては『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』19-20頁・319頁のキーワード索引(古田先生の関心領域について)及び以下の雑誌の特集記事でも言及されている。古田先生の場合は「自己」「他者」「対話」に関わる問題が「生徒に教えたいこと」なのである。

 

教育科学 国語教育 2019年 04月号

教育科学 国語教育 2019年 04月号

 

 

 また古田先生は「本の目的・目標」として「実際の授業で起きている言葉を言語化して、具体的なイメージを持ってもらう。→国語教育に対する批判はステレオタイプのものが多い(ように思う)」を挙げた。近頃国語への偏見の根強さは広く見られる(アンテナが立っているから?)ように思う。こうした部分での歩み寄りがない限り国語教育に忍び寄る外的な圧力に押しつぶされる可能性も否定できない。

 

言述論(discours) for 説話集論

言述論(discours) for 説話集論

 

 古田先生の指導教官である竹村先生のご著書の566-570頁「附論ー古典教室へ」を引用し、生徒に響く教材を!ということをお話があった後、軽い模擬授業をしてくださった。『徒然草』235段を読ませ、「ここからどのような現実・教訓を得るか」という発問を投げかける。その問いに対し、私は「心に自分の核を持て!ということでしょうか」と申し上げた。その答えに対し、こうした解釈コードはどのように作られているかというさらなる問いを与え「こういうことを授業で意識しています」と示してくださった。「心に主あらましかば、胸の内にそこばくのことは入来らざらまし。」の反実仮想に注目する、『徒然草』に表れる兼好法師の思想を探ることにも言及されていた。古典に教訓を求めてしまう思考はどのように形成されたか、「教科書」や教師というメディアが深く関係していそうだ。確かに探究したくなる問いである。また関連して古田先生は伊勢物語は男性の論理で女性に厳しいことを指摘し、(積極的に結びつけるのでなく)現代のジェンダー問題を示唆することについての話題もあった。23段を読ませ、「男性と女性どちらが書いた」という問いを投げかけることがこれらの問題を発見させることにつながるのではという話もあった。時間的な隔たりがある古典だからこそ、そこで扱われる問題を批評できるのだ。現代に通ずる問題を考えるために古典の言葉に触れるという方向は「言語文化」で懸念される安易な「つながり」重視にはならないだろう。

 

 以下全てではないが読書会で特に印象深かったトピックや参加者の言葉を挙げていく。

 

問いについて(270頁の「おわりに」の言葉から)

 「永続的に問うことのできる主体をどのように育成していけばよいか」という古田先生の課題・関心は、探究を探究し国語科に取り入れていきたいと考えている私にとっても切実なものである。古田先生の重視する授業で必然的に読み返すような「グサッといく問い」を用意することは非常に重要な要素であろう。

  ただ今読んでいる本では教師が用意したものだけでは生徒の力にならないということを指摘しており、考えざるを得ない問いを与えることと合わせて生徒から問いを引き出せるような授業はどのようなものか考えていきたいと思っている。

探求の共同体 ─考えるための教室─

探求の共同体 ─考えるための教室─

 

 

 

空間づくりについて(本書165頁から)

 165頁のような「空間」をいかにつくるか、定時制高校でで勤務されているはこせんせーだからこその着眼点だと思った。授業に書くことを取り入れ、喋らない子の言葉を拾うことが古田先生から提案された。rofu先生は「哲学対話」を取り入れていくことがこうした空間づくりに貢献するのではというお言葉があった。生徒同士での対話が難しい場合には教師が真ん中に立ち、生徒と生徒とをつなぐ役割を果たし、他の生徒の声を聴くということを目的とした「哲学対話」ならば実践できるかもしれないと後日お会いした際にはこせんせーは語っていた。生徒や学校を選ぼうとしている私は持っていない素敵な実践観だと思う。

 

評価について(横濱先生の実践を起点とした問い)

 自身のご実践から教師が評価した方がよい場合と生徒が評価した方がよい場合とがあるということを横濱先生は気付き、それをどのように使い分けているかについて古田先生に問われた。古田先生はその問いに対し(どのように受け止められたか忘れてしまったが)生徒が「誰を評価するのか」に着目することもよいのではという指摘をなさった。

 評価に関連して葛西先生は良いという評価はすべきだと思うが、評価のために頑張るというような状況はどうなのか、評価は見える方がよいのか見えない方がよいのかという問題を提起された。

 rofu先生の同僚の方による部分的評価がうまくいくという話は興味深かった。全人的な評価を胡散臭く感じるということはとてもよく分かり、私も抽象的な人柄よりも「ここが良い」と部分的に評価された方が刺さると思った。

 rofu先生が定期テストのあり方について問うた際、古田先生は覚えてできるものは30点まで別の文章を出すと予め告知するという言葉もあり、テストに意見できる立場になれば実践したいなと。

 

ポリフォニーについて(本書85頁から)

 本書では教室における多声についてだったが、読書会ではテキストを読む際にポリフォニーを意識するという話を聞くことが出来た。すなわち同頁1行目「テキストもそうですが、」をかなり丁寧に聞けたということである。

 「テキストを読む際にポリフォニーを意識する」とは強く言いたいところはあろうがテキストのメッセージが一つでは有り得ないということ、また踏まえていたであろう書き手の意識しない声も聴こうと努めるということであった。

 

「古田先生自身はこういう授業をやっていないのでは?」(rofu先生)

 

 

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 授業を三コマ見せて頂いた限りではあるが、なるほどこのように先生は授業するのだなと納得していたのでかなり衝撃的な指摘だった。古田先生の書きぶり・言葉から本を読んでいる最中もしくは読後にrofu先生がこのように思ったそう。その思いを著者の古田先生にぶつけてみるというrofu先生。実際に古田先生は「ここはおさえてほしい」「ここまでやってもよい」というところで事例編を書いたそう。

 「ここまでやってもよい」について古田先生は人文学の危機を和らげるためにもすごい!と思わせる研究成果を授業に活かそうという思いがあると語ってくださった。

 文学は「人が何をしてきたか」を探究するものだという話も興味深かった。歴史について社会科だけではなくて、国語科も積極的に与していく必要があるのではないかと考えている身としてかなり刺さる指摘だった。

 

 古田先生は最後に「授業者にとっても実りのある授業を見つけたい」という言葉で会を締めくくってくださった。

 京都でお会いする際はここを新たに書き加えたい、ここは書き替えたいというような話が古田先生から聞けるのではないかと期待している。また今年度は私も教壇に立つことになったので改めて読み返した際に本の叙述或いはその読みを通した私自身について新たな発見があるのではと思う。来る第二回読書会の日までには再読しておきたい。読書会のメンバーと京都の地で加わる新たな方と本を通して葛西先生が評して下さったような「ポリフォニックな場」を再び味わえればと思う次第。今年度中に実現できれば良いが果たして。