以下の記事で示したように2/24は広島に来ていた。
こんな機会は逃すまいと25日に授業見に行っていいですか?と事前に連絡し、快く授業見学を許可して下さった。
授業見学後の雑感
広大福山古田先生の授業を見学させて頂いた。学年末前のお忙しい時期である。以前文科省小原先生から問いを契機に読み深めが起こる「文章に風穴を開ける問い」についての話を伺った。今日見学した3つの授業はまさにそうした問い及びそれを考える足場作りの問いがあった。問いをどの順番で組み立てるか
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年2月25日
について非常に参考になった。特に和歌1首を言葉に着目して読み深める授業のイメージが持てるようになったのは私にとって大きい。また、板書についてそれ自体が重要というより、教材の読み取りを板書で構造化できる力自体は国語科教員に必須だろうというお考え。そのお考えに納得がいく授業であった。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年2月25日
授業を見たいと思う先生が快く授業を公開して下さる。有難い話である。
まぁいつも通りの授業です。いつでも見学しにきてください。
— 国語科教員 (@coda_1984) 2019年2月25日
大学院進学のきっかけは一個上の大学院進学する先輩に対し、古田先生が何故大学院に進学するか聞いた際の返答このままだと現場に飲み込まれそうという言葉がきっかけの一つだそう。この点に関しては異論もあろうが私は確かにその通りだろうと思った。少なくとも私は大学4年で教員採用試験を受け、正規非正規問わず教員になっていたら間違いなく現場に飲まれていたであろう。院修了後もそれは変わらないかもしれないが、修論の執筆過程で手に入れる「思考の核」と言えるものや2年間の様々な形の経験は非常に大きいはずだ。
中2 万葉集「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず」
この本の59-60頁にもある実践である。2頁に凝縮された実践を50分実際に見させて頂いた。雑感にもあるように「和歌1首を言葉に着目して読み深める授業のイメージが持てるようになった」のは大きい。
まずは古田先生が和歌を板書し、生徒を指名して読ませる。この和歌を元々知っている生徒がいなかったため(ex.読むように言われた生徒は「さきもりにゆくはだれがせととうひとをみるがともしさものおもいもせず」と読んだ)どう読むかについて発問を通して確認していく。他の読み方をするという生徒を指名する。(「誰が」について)
「たが」「なんでそう読んだ?」「リズムが」「どういうリズム?」「五七五七七」
上のように問うことによって「だれが」と読んだ、もしくは読んだであろう生徒に思考のプロセスを共有しているように感じた。「君の名は」に出てくる「誰そ彼(たそがれ)」を挙げ、「誰」が「た」という例を示す。「五七五七七」と読むとしたらおかしなところがあるとして「物思ひもせず」の「物思ひ」は「ものおもい」ではなく、「ものもい」と読むと説明する。昔は母音の連続がなかった?好まれなかった?ためであること、錦織を「にしこり」(nisikiori→nisikori)と読むなどその名残は今も残っていること(これを引き出すための補助発問日本の有名なテニスプレイヤーは誰?という問いに対し生徒たちが海外のテニスプレイヤーや大坂なおみ、松岡修造とある意味流れをあえて無視した答えをガンガン挙げているところは中学校らしいと思った)
そして「和歌の場合は句点を付してみるのがよいでしょう。」(先掲著60頁)とあるように、句点を付して「文構造」を見るところに入る。古田先生は「句点をどこに打つ?」という問いを発し、その問いを考えるために「句点の前にはどういうのがくる?」「句点で終わるのどういう状況・状態なの?」「ちょっと話し合ってください」と問いを考える方向付けの問いを投げかけ、既有知識を確認する話し合いを取り入れている。
今日の授業は「直感で選べ」ってきいてみたのだけど、文を分析する時にいろんな概念を明示されて教わっていなくても、なんとなく「これかな?」と選べていけるものもあって、最初にそういうのをやってから詳しく説明していくのがいいんじゃないかなぁと思う。
— 国語科教員 (@coda_1984) 2019年2月25日
その後様々な答えを聞き出し(直感でどこかを答えさせた後どちらが良いかと考える)、ともしさの後に句点を付すことを理解する鍵となる体言止めを引き出す。形容詞の活用語尾に「さ」を付けると名詞化するということも発問を通して生徒の既有知識から文法を引き出しており、文法はやはり教えるより引き出す方がよいなと改めて。
そして、本時を大きく展開させる「誰が誰を見ていますか?さぁ、みんなで考えよー♪」という問いを投げかける。話し合いが始まってきたタイミングで、古田先生は「言葉に着目」「誰がは難しい、誰をは分かる」などというようにヒントを投げかけながら数人の生徒やグループの声を聴いていた。
話し合いが一段落したところで一つよく分かっていない言葉があるとして、背の意味が夫であることを確認し、現代語訳を生徒にさせる。「防人に行くは誰が背と問う人を」が「誰を」の答えであることを確認し、「誰が見ているでしょう」「話し合ってみよう」と明示されていない「誰が」の部分を話し合うことを通して考えさせる。おおよそ全員が答えが分かったところで次の発問に移る。
「歌には心がある」(前時の内容らしい)としてこの歌の「心の状態。何を思っているか。歌の言葉を参考に」と投げかける。「物思いもせず」「ともしさ」が出てきて、「物思ひもせず」が「防人に行くは誰が背と問う人」「ともしさ」が「防人の妻」の心情であることも確認する。
その後「体言止め以外に使われている表現技法は」と発問する。ストレートには出てこないので、「物思ひもせずどこかにやりたい」と補助発問し、倒置法が使われていること及び先に句点の位置を考えたことに繋げる。
「防人の妻」の「ともしさ」を「セリフにしたら」どうなるかという発問を投げかけて授業は終わる。意味通りに取れば「羨ましさ」だが、この発問で終えたことからも逐語訳で「分かった気にさせない」授業を志向していたことが分かる。
以下は少しダイジェスト版で。必ず後で書き足す。
中3 百人一首一夕話「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあわむとぞ思ふ」
語の解釈がわかればなんとなく分かった!となってしまいがちな和歌である。前時の和歌の授業で行ったと思われる自然と感情との関係についての確認をして和歌の解釈を一通りした後「このままで終わると思う?」と「何を見て何を思っているのか。」という問いを投げかけ、既知を未知へと変える発問をして、再度和歌に向き合わせていたのが印象的であった。
中2 菊池寛「形」第二時
単にこの小説を丁寧に読解するだけでなく、小説の読みと合わせて社会の見方を知る、もしくは改めて再発見する授業だった。
象徴的な発問は「みんなにとっての脅威って誰?」「「形」って何?」である。最後の発問は細かい言い回しを忘れてしまったので授業見学メモを見返して改めて書きたい。小説の具体を抽象化し再度自分の文脈で具体例を挙げるという往還も見られた。
今回の授業見学では先の雑感と重複するが、教材と生徒を発問でどのように繋ぐか、発問の順番をどのように組み立てることでどのような学びが生まれるかいう点で示唆を得た。しかし、この古田先生の授業スタイルは「すぐわかる!できる!」というものでは決してなく、私が教材を読み込み、授業で生徒と向き合っていく中で少しずつ出来てくるところなのであろう。また、今回は全て初めて見る教材での授業だったため「なるほどこういう教え方が出来るのか!」と古田先生の授業をそのまま受け取ってしまっている。この教材はこう教えるというようなスタイルがある程度固まってから改めて授業見学させて頂くとまた違った発見が出来るだろう。今から楽しみである。
以前あすこま先生とお話ししている中で「はまてんさんはいい授業を見過ぎでいっぱいいっぱいになっているのかもしれないね。」というお言葉を頂き、ハッとした。見る目のないまま自分が見たい!と思う多くの授業を見せて頂き、それを寝かすことの無いまま自分がこんな授業を出来るのかと煩悶する日々を送っていたことに気がついた。
私は来年度からは教壇に立つ。体に眠っている授業見学で得た学びの蓄積と、これから出会う教材の読みと生徒。試行錯誤しながら授業を作り上げたいと思わされる貴重な経験だった。
教材の内容の自明さにどう切り込んでいくかってのが授業者の工夫があり、そして悩ましいところである。
— 国語科教員 (@coda_1984) 2019年2月25日
自明なものは見えにくいのだけど、そういうのを前景化していくためにはどういう方法があるのか。どれが有効なのか、そんなことは考えているなぁ。
— 国語科教員 (@coda_1984) 2019年2月25日