虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

内田義彦さんに学んだ方がいいかもしれない…

  未だ草稿も書き終えられぬ修論の一部を紹介。

近代文学の先生から頂いたこちらの本

内田義彦セレクション〈第1巻〉生きること学ぶこと

内田義彦セレクション〈第1巻〉生きること学ぶこと

 

 を引用して。

 

  内田義彦(1972)はウィリアム・ゴドウィンがAn Enquiry concerning Political JusticeやThe Enquirerを書いたことを取り上げ,「この場合Enquiryは,研究という言葉でわれわれが普通想念に思い浮かべるではおおいつくせないものを持つ」として以下のように述べている。なお,傍線は稿者による。

 

「研究」で誤訳ではないんだが,研究という言葉が本来もつ牙がぬきさられてしまう。そこに問題があるんです。研究が始まるところ現実と学問との接点をぬきにして,もっぱら外国の学界の交流の中で,当初は研究の成果を全面的に外国に負い,その後そういうものとして研究水準の上昇を狙いにして輸入学問を輸出学問にまで高めてきた。こうして学問は輸出学問にまで成長した。しかし,現実との接点を欠いている点で,輸入学問の性格を脱していない。それが「研究」という言葉にまといついているとおもわれるんです。「尋ねる」という「研究」以前のごく日常的な面,「研究」をこえて哲学に近づく面、インクワイアリ―という言葉に含まれるこの両方が,「研究」という言葉からはみ出します。(230頁)

 

 正しく理解できているかは分からないが内田のこの言葉は非常に納得する。

 探究は研究と異なり,気になることを「尋ねる」「日常的な面」と,探究の対象を通して真理や自己に近づくという「哲学に近づく面」の二つの面が存在するのだと考えている。なお,「インクワイアリ―という言葉に含まれる」2つの面は,「「平明なこと」をもとにして学界の通念の外に出ていく側面と,常識の迷妄を精密に学問的な作業で一歩一歩論破していく側面」(232頁)と言い換えられており,後者は研究でもいいのでは??となった。

 

 昨日読み終えた

職業としての「国語」教育 方法的視点から

職業としての「国語」教育 方法的視点から

 

 にも頻繁に名前が登場し,実践に大きな影響を与えたことが伺える。

 

bookmeter.com

読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

 

 はあすこま先生にお勧め頂き読んだ記憶がある。

  「本は読むべし、読まれるべからず」や「概念装置」という言葉が印象に残っており再読のためにメルカリで購入した。

hama1046.hatenablog.com

 

  就職先の関係でもうすぐ使えなくなるだろうが,一人でも多く私の招待コードをご入力頂き,私もハマっている古本買いの沼に引きずり込みたい。(結局私欲へ)

hama1046.hatenablog.com