人や物事に対する好き嫌いと言語化との関係についての覚書
クロゾフさんのツイートを契機にとあることを思い出した。
相手(友人、恋人)を好きな理由をすらすら言える場合は、その理由にあげているものがなくなった時点ですぐに縁が切れるみたいなのどっかで聞いたんだけどなんだったっけ。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
誰かこの元ネタをご存じありませんか。
水差し魔虎哲のモテない理由がちょっとわかる。
— クロゾフ (@ani_kinchan) 2019年9月28日
思い出したことを自由につぶやくことに対して、クロゾフさんがリツイートして文脈を与えてまで「水差し」と言われる筋合いはないと思ったがここからお互いの考えの相違が明らかになっていく。何事も自分や自分たちに対して言われていると思う人が多いtwitterにおいて、地雷を踏む人(特定の人を揶揄しようとして関係ない人まで怒らせるという事件に象徴的)が多く、現実もこうならさぞ息苦しく、人は案外自分を見ていないということに気が付くべきだなと。
何故純粋に思い出して気になったことをいうと水を刺したことになるんだろう。シンプルに傷ついた。(こういうところがモテない)
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
私が親友だと思う人や好きになる人は私と対称的というか、無いものを求めているんだろうということは分かるが(みんなそう?)それ以上の言語化は出来なくて、例えばエピソードは挙げられても要素は挙げられない。嫌いな人は非常に少ないがシンプルに嫌なヤツか、こういう発言があったみたいな程度。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
人の好き嫌いは言語化出来るのかという問いが根底にあって、私に関して限定すればそれは出来ないんじゃないかなーと。好き嫌いを明瞭に言葉で切り取れる時点では、好き嫌いの程度って大したことないのではないかという考えがあって。たまに「コイツすごく好きなんですよー」って言ってそこから言葉が
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
明瞭に出てこない人がいるが、そういう人は割と信用できるんじゃないかと思う。ただどれだけ好きか嫌いかを言語化できるている場合はそれだけ対象のことを考えている証拠にはなるか。好き嫌いと言語化との関係について論じたひとって絶対いる気がするな。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
「言葉にできない」では仕事ができない。もやもや思考を “結晶化” する、3つの言語化トレーニング - STUDY HACKER|これからの学びを考える、勉強法のハッキングメディア https://t.co/DA1Ri00DWj
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
言語化が不得意で苦手な日本人。あなたは「なぜ」それが「好き」なんですか? https://t.co/9GiUCsGv60 @minimalman10より
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
クリエイティブな人になりたいなら、嫌いな人に会いに行きなさい | 未来を変えるプロジェクト by iX(アイエックス) https://t.co/Dx0NK7YwWS
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
女性は言語化で行動し、男性は黙って行動するから、女性集客には感情を言語化しましょう。 | マインドック有限会社 https://t.co/VbzYmrbBEt
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
これは私の知りたいことに近いかもしれない。https://t.co/FDLGDqpxW9
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
今までは「好き嫌い 言語化」で検索していたが、その過程で選好という言葉を知り、それを取り入れて検索してヒットした博論。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
めっちゃ読みたいのに文字化けしていて読めない。https://t.co/C8If5jnGy7
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
ただ選好の対象は人というより物に対してっぽいな。社会心理学・行動経済学が専門だし。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
言葉にすることは明確化すること・限定することだという価値観なので、優劣はなくとも「言葉にできる部分<言語化の有無に関わらず全体」と言うことは出来ると思う。例えば自分の小説のあらすじや引用を嫌う作家の感覚。自身の作品のあらすじを読んで「こんなつまらない話!」とがっかりするみたいな。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
自分の言葉で目の前の相手を語れるなんて思っていないから、そもそも自分の言葉を信用していないんだな。ネット記事は感覚の言語化と語彙の量について論じるものが多くて、ある程度はその通りではあると思うが全てではないとも思ってしまう。ただ私は語彙の量が圧倒的に不足していることは確かなこと。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
生涯の探究テーマ(仮)
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
・中等教育国語科における探究について(国語教育史的検討・教科構造・理論と実践)
・人の好き嫌い判断と言語化との関係(誰かやってそうだが、答えは不明。認知とかの方面で論じるのは無理だから、資料を集積して論じる?)
平井堅「きみのすきなとこ」の歌詞は共感できる。「言葉に出来ない」のは君の前だからなのだろうが。頭にはたくさん浮かぶけれどそれを言葉には出来ないという感覚が私の言わんとする好き嫌い観に近い。私の場合はパーツよりもエピソードの方が多いが、エピソードにするとメロディには乗らない問題。笑
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
3時に目が覚めて、気になることを色々考えていたらこんな時間。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
ドラマにおける「なんであんな人(夫を指す)と一緒にいるの?」妻「なんでだろう。わからない。」みたいなシーン、私は結構二人でいるってそういうものなんだろうと納得する。もし仮にこういうシーンで、妻が即答で3個くらい(多くても)答えたとしたら、視聴者は幻滅する気がするのだがどうだろう。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
皆さんはどうですか?
ただこのケースで想定されるのはわりと長く一緒にいる場合で、付き合って間もないカップルの場合は即答しないとまずいような気もする。そもそも「どういうところが好きか」っていう質問自体ナンセンスで、同じようなことを聞くようでも「どういう時に好きだと感じたか」と質問する方が良い気がするな。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月28日
— クロゾフ (@ani_kinchan) 2019年9月28日
言語化できないものにこそ価値がある、という言説。「言語化できる程度の気持ち」なんかね。
— クロゾフ (@ani_kinchan) 2019年9月28日
虎哲くんが言っていることは、まさしく『「である」ことと「する」こと』と同じ論旨を共有していると思うから、はこちゃん読んでみて。
— クロゾフ (@ani_kinchan) 2019年9月28日
虎哲くんの恋愛観(?)は、「する」ことに偏重的なんだなぁ。
そもそも私が問題としているのは恋愛観ではなく、対象を人に限定しない好き嫌いと言語化との関係だが、丸山真男の『「である」ことと「する」こと』が引き合いに出されたことは面白い。
積読本
お互いが力点を置いている部分が違うため根本的な理解が真逆なところもまた面白い。
「好きなところは?」という問いは想い人の「である」ことを誘発する問いで、「どういう時に好きだと思った?」という問いは「する」ことを誘発する。
— クロゾフ (@ani_kinchan) 2019年9月28日
例えば「おっぱいが大きいところ」ってのは「である」ことで、「僕が困っていた時に...」なんかで始まれば、必然「する」ことになるだろうね。
好きな人の好きなところとか、バンバン言っていくのは、そう相手を誘導するためでもある。非常に作為的な行為。でもそれはとても現代的な自我論で、社会性の中で規定されていく自己という側面から考えれば、至極当然でもある。
— クロゾフ (@ani_kinchan) 2019年9月28日
少なくとも、(ここではもう少し一般化できそうだけど、とりあえず恋愛において、「言葉にすること/言葉にしないこと」、「言葉にできること/言葉にできないこと」は分けて考える必要がある、ということだけは付け足しておく。
— クロゾフ (@ani_kinchan) 2019年9月28日
そして「恋人の好きなところは?」という問いに答えるというのは、ある意味で宣伝、社会的な価値の向上を促す行為であり、自分の愛情を示すためではないということを考えると、やはり「好きなところは?」という問いにポンポンポンと答えられるということは、内容よりもスピードでその愛が窺い知れる。
— クロゾフ (@ani_kinchan) 2019年9月28日
恋愛には限定せず、あらゆるものについて好きな理由を言語化できないことがあると思っていて、それをいうと好きなものの全体を切り取ってしまうような感覚があるんだよな。どちらかというと「好き「である」感覚」有意の古い感じ方な気がするが。すぐに言語化出来ることが価値を下げるわけではない。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
逆に言葉に「する」、どんどん好きなものについて好きを伝えていこうというのは現代的な感覚で、これが現在社会的に支配的な感覚なんだろう。言葉にすることで自覚化を進めることは大事なことだろうが、ただ隣の友達の好きなところを10個あげてみよう!みたいな実践があったとした違和感がありそうだ。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
逆裏対偶を持ち出すまでもなく、「言語化できることに価値がある」と「言語化できないことに価値がある」との両方真だと捉えているが、なんとなく後者の方が好きだという感覚がある。そしてありのまま好きでいることと、好きな部分を言えることとは両立し得るものだとクロゾフさんの意見で考え直した。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
形式論理は内容を置き去りにするということに思い至らず、逆裏対偶を持ち出すバカがいたことについてはその人のツイートをあえて引用しないが考えとしては基本的に上記に集約されている。
部分は全体を構成する。エピソードこそその人や物の部分でありながら、全体を表すと捉えて「どういうところが好きか」にかえて、「どういう時に好きと感じたか」という問いの方が良いのではないかということを言ったが、「どういうところが好きか」という部分を指摘することも全体を好きであることを
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
部分的に指摘することも全体を切り取らず(ここについてはやや疑問が残るが)に好きを表出できる手段なのだ。いわゆるオタク特有の早口といわれるものはこの典型で好きなものの部分をスピーディーに大量に言語化出来ることこそ、好きの証なのだろう。現代的な感覚な気がする。#こてほん の渡部先生の
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
古典を「役に立つ」という部分ではなく(教育実践における価値も主張したが)全体をありのまま好きでいるのはダメですか?というスタンスだったと捉えるとありのまま好き「である」価値を発信したと捉え直すことが可能だ。やはり、自分の言葉よりも対象が大きいものは言語化が難しいと言えるのでは。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
言語化出来ることにも価値はあるけれど、言語化出来ない一緒に(いる/ある)価値も認めるべきだ。私は阪神が好きだが1時間でその思いを言語化せよと言われてもそれは出来なくて、ダメ虎だろうが、大好きな選手を冷遇しようが14年間好きであり続けたというそれ以上の説明が要りますか?と言うだろう。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
好きであることに時間の概念を持ちかけるのは乱暴な気もするが、『星の王子さま』における王子さまとバラとの関係もやはりかけた時間ということを問題にしており、欠かせないものと言える。言語化出来るのはそれだけ時間をかけて対象と向き合ってきたということは間違いないが。そして「どこが好き?」
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
世界の古典といえる「星の王子さま」の有名な一節であるが、この考え方もまたある程度支持されているのではないか。
- 作者: サン=テグジュペリ,Antoine de Saint‐Exup´ery,河野万里子
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王子さまは自分の星のバラを特別に思っているが、ここが好き!と言語化できていなかったように思う。それは彼が幼稚で語彙が少なかったからだろうか。
に答えられない私はやはりモテるはずがない。
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年9月29日
ここまで読んでも恋愛観と誤解されている方のためにモテない男のやっかみを一つ。
個人的に相手がいないところでの惚気話は好きな思いがあふれた問わず語りなのだと感じられる点で好きなのだが、二人で遊びに行きましたをSNSに投稿することはそれを赤の他人に伝えることなしに二人の時間を噛み締められないのかという点で疑問が残るため嫌いである。もし仮に付き合っている人がSNS投稿したい!と言っても断るだろう。ずっと添い遂げられる二人は稀なのだから、他人に発信する間も二人でいることを楽しみたまえと思うのだ。