虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

人や物事に対する好き嫌いと言語化との関係についての覚書

クロゾフさんのツイートを契機にとあることを思い出した。

誰かこの元ネタをご存じありませんか。

 思い出したことを自由につぶやくことに対して、クロゾフさんがリツイートして文脈を与えてまで「水差し」と言われる筋合いはないと思ったがここからお互いの考えの相違が明らかになっていく。何事も自分や自分たちに対して言われていると思う人が多いtwitterにおいて、地雷を踏む人(特定の人を揶揄しようとして関係ない人まで怒らせるという事件に象徴的)が多く、現実もこうならさぞ息苦しく、人は案外自分を見ていないということに気が付くべきだなと。

皆さんはどうですか?

 そもそも私が問題としているのは恋愛観ではなく、対象を人に限定しない好き嫌いと言語化との関係だが、丸山真男の『「である」ことと「する」こと』が引き合いに出されたことは面白い。

 積読

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 お互いが力点を置いている部分が違うため根本的な理解が真逆なところもまた面白い。

形式論理は内容を置き去りにするということに思い至らず、逆裏対偶を持ち出すバカがいたことについてはその人のツイートをあえて引用しないが考えとしては基本的に上記に集約されている。

世界の古典といえる「星の王子さま」の有名な一節であるが、この考え方もまたある程度支持されているのではないか。

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

 王子さまは自分の星のバラを特別に思っているが、ここが好き!と言語化できていなかったように思う。それは彼が幼稚で語彙が少なかったからだろうか。

 ここまで読んでも恋愛観と誤解されている方のためにモテない男のやっかみを一つ。

 個人的に相手がいないところでの惚気話は好きな思いがあふれた問わず語りなのだと感じられる点で好きなのだが、二人で遊びに行きましたをSNSに投稿することはそれを赤の他人に伝えることなしに二人の時間を噛み締められないのかという点で疑問が残るため嫌いである。もし仮に付き合っている人がSNS投稿したい!と言っても断るだろう。ずっと添い遂げられる二人は稀なのだから、他人に発信する間も二人でいることを楽しみたまえと思うのだ。