虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

他者の言葉に対する自分の中にある違和感と向き合う

 ある人の言葉に対する違和感についての暫定的な考察。

 光村図書「国語2」の大岡誠「言葉の力」を思い起こした。一節を引用したい。

 

言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。

 

 この文章ではその後、人と言葉との関係を木と花びらとの関係になぞらえているところが面白い。どんな美辞麗句もそれにふさわしい人間から発されないと響く言葉になり得ない。なるほど、言葉が響かない理由や違和感の正体はこういうところにあるのかもしれない。

 

ことばの力

ことばの力

 

 ここにある随筆に著者が加筆したらしい。詩人の言葉に対する一つの考え。個人的には説得力があると思う。彼の詩と合わせて読んでみたい。

 

 子どもは本当に発される言葉の根底にあるその人の人間性を見透かすと聞いたことがある。自分にもこうした感性がまだ残っているのかもしれないと思いつつ、響く言葉の発せられる人間になりたいなと思う今日この頃。

 その人が「国語」という枠でそのことを話そうとしていたから響かなかったのかもという風に思い直した。早く管理職・教育委員会に活動の場を移して頂きたい。「国語」に限らず広く困難校の教育に向き合うことを求められている人なのだ。

 全体の場でこれはエリートの議論だと言うことは鋭い指摘をしているようで大きく話の本筋から逸れたものであると思う。非エリートについて議論することもまた反対にエリートをないがしろにする形になり、自分のところに議論を引き付けようとするものでしかなく、そこから生じるのは単なる主導権の奪い合いに過ぎない。その場にいる人たちがその場のことを考えていくことこそ最善かつ重要だと未熟な自分は考える。国の考える教育がいわばPISAや学力調査等の結果から見た標準で考えるのは至極当然なわけで、考えられたものを現場にいる教員が目の前の生徒に合わせて創意工夫することが難しくも必要とされている教員の資質なのではないか。