ある人の言葉に対する違和感についての暫定的な考察。
言葉はどこかで見聞きしたことがあり、かつそれを見聞きした時のものよりも下回る言い回しなので主張如何に関わらず首肯しかねる。たまに遭遇するがその人の言う言葉が本当に響かないのだ。いざとなると自分の経験を持ち出して殴ってこようとするところも信用ならない。本当に上司にいたら嫌なタイプ。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月2日
自分が良いなぁと思う先生の言葉は響く。私の少ない経験にも響き渡るような奥深さがある。その全てを私が受けているかは別にせよ。違和感は生まれても響かない。自分が会ったことがあり、良いなぁと思っている先生がその人の言葉をほとんど拾わないのもどこかそうしたところがあるのではないかと思う。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月2日
勿論お会いしたことがあり、良いなぁと思っている先生でその人の言葉を拾う人もいる。それ自体に関しては特に何も思わない。教科に関しては深い見識があるのだろうと思う。お会いする前も後も響かない言葉に対する違和感は拭えなくて、言葉以前のその人の性格や根幹のところに何か理由があるのかもな。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月2日
中学の教科書にある大岡信さんの言葉に関する随筆、初読で表層の意味しか分からなかったんだけど、その人に対する違和感を考えるうちに何となくその随筆で言わんとすることが分かったような夜中。人は言葉に出て来てしまう。そんな言葉に同意する人もいれば、何となく響かないと聞き入れない人もいる。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月2日
光村図書「国語2」の大岡誠「言葉の力」を思い起こした。一節を引用したい。
言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
この文章ではその後、人と言葉との関係を木と花びらとの関係になぞらえているところが面白い。どんな美辞麗句もそれにふさわしい人間から発されないと響く言葉になり得ない。なるほど、言葉が響かない理由や違和感の正体はこういうところにあるのかもしれない。
ここにある随筆に著者が加筆したらしい。詩人の言葉に対する一つの考え。個人的には説得力があると思う。彼の詩と合わせて読んでみたい。
とりあえず本書いたり、何かの運動の旗手になったりするのは向いていないんだろうなと勝手に思っている。響く言葉で書かれていなくても買い手の目が肥えてない限り売れるものは売れてしまうってことを自分の尊敬する先生も嘆いていたし、トップに立つ人が相応しい器を持っていないことなどよくあるが。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月2日
少なくとも響かない言葉に立ち止まるよりも少しでも多く響く言葉に出会いたいって考え方の私は多分その本を買いも読みもないし、何か運動を始めたとしても与しない。しかしながら世の中には私にとっては響かない言葉で救われる人も大勢いて、その価値を否定するべきでないと思う。そういうのもあろう。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月2日
以上。三時に起きてしまってから違和感と響く響かないについてだらだらと考えてしまった。寝ます。 pic.twitter.com/H5gFBQpv7E
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月2日
子どもは本当に発される言葉の根底にあるその人の人間性を見透かすと聞いたことがある。自分にもこうした感性がまだ残っているのかもしれないと思いつつ、響く言葉の発せられる人間になりたいなと思う今日この頃。
国語を背負って立つ人は他にいくらでもいるだろうが、自身の経験から自治体にある困難校の先生方に寄り添いアドバイスしていくような方はほとんどいないのだろう。きっと先生は国語に限定せず一教員の立場でもなく、こうしたところに向き合っていくような立場になって下さるのだろう。すごいことだな。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月4日
自分にはこうした働きは出来ないだろうなと思うので、そうした方々が一刻も早く管理職や教育委員会などの役職に就いて頂けることを願うことしか出来ない。私は私で教員になったら私国立の立場で出来ることをしっかりとやっていきたい。それぞれにそれぞれの役割があるのだ。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月4日
その人が「国語」という枠でそのことを話そうとしていたから響かなかったのかもという風に思い直した。早く管理職・教育委員会に活動の場を移して頂きたい。「国語」に限らず広く困難校の教育に向き合うことを求められている人なのだ。
国立大学附属は困難校の教育に貢献できないかもしれない。基本的に生徒の実態から授業は構想されるのでそこから離れた授業は成立し得ない。困難校の教育を考えたり、変えることができるのはやはり困難校で働いている人や働いていた人だろう。同じようにエリートも中間層も等しく大事で議論されるべき。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月4日
だからこそ特定の層について全員が議論することは難しく、どこかを特別扱いして議論することを一個人としてはすべきでないと思う。基本的には同種の層が手を取り合って連携していき、他の層に対しては敬意を払い、各々がその層で出来ることをするしかないと思う。何もしなくていいってわけじゃないが。
— はまてん (@Hamaten61) 2019年2月4日
全体の場でこれはエリートの議論だと言うことは鋭い指摘をしているようで大きく話の本筋から逸れたものであると思う。非エリートについて議論することもまた反対にエリートをないがしろにする形になり、自分のところに議論を引き付けようとするものでしかなく、そこから生じるのは単なる主導権の奪い合いに過ぎない。その場にいる人たちがその場のことを考えていくことこそ最善かつ重要だと未熟な自分は考える。国の考える教育がいわばPISAや学力調査等の結果から見た標準で考えるのは至極当然なわけで、考えられたものを現場にいる教員が目の前の生徒に合わせて創意工夫することが難しくも必要とされている教員の資質なのではないか。