昨日は日本文学協会国語教育部会夏期研究集会に参加させて頂いた。
http://nihonbungaku.server-shared.com/whatsnew/2018_8kakikennkyuu-rink.html
文学研究を専門としない私でもそれなりにわかる内容であり、かつ、なるほどと感じさせらえることも多々ある有意義な時間であった。
第三項理論とは
大胆に言えば、主体―客体、主体―主体の捉えた客体という二項で考えるのではなく、主体―主体の捉えた客体(捉えられる対象)―客体(主体がとらえきれないもの)という三項で考えよということであろう。この場合は客体が〈第三項〉にあたる。読書行為に即していえば、読者―テクスト(読みの際に読者に現象する解釈・日文協でいうところの〈本文〉(ほんもん))ー本・文章そのもの(日文協でいうところの〈原文〉)ということになる。おそらく、バルトのテクスト論との差異は、第三項理論がテクストを読む行為は「還元不可能な複数性」にとどまらず、自身を読むことにつながるということにあるらしい。(断定的な言い方を避けるのはバルトのテクスト論や第三項理論の詳細を理解しきれていないからである)
〈世界像の転換〉という考え方は文学を読む意味の一つとして面白いと思った。この語の意味は
①これまでの自身のそれとは異なる、ものの見方・考え方・感じ方を知ること。
②そこで得られた(掴めた)ものの見方・考え方・感じ方をを物事の多面的な見方の一例に過ぎないとし、唯一絶対のものであると過信しないこと。
③物事の捉え方について、唯一絶対のものがないとしながらもより良い(より善い)ものの見方・考え方・感じ方を探求し続けていくこと。
であると説明されていた。第三項を想定しなければ主体がとらえたものが正解となるなんでもありな状態になりかねないとして、第三項理論を重視しているようである。
文学の探究
日文協は正解到達主義を明確に否定し、またそれに対抗する形で現れた「ナンデモアリ」な授業に陥ることも否定する。私も、文学の読みに正解はないが、根拠を持たない読みを何でも許容することもまた読みの持つ面白さ(私見である)を蹂躙するに等しいと考える。これらの問題を超えるために彼らが重視する〈語り〉や〈機能としての語り〉というものに関しては私の力不足であまり理解が出来なかったが、彼ら自身が教室で〈世界像の転換〉を導こうとする様は実践報告から伝わってきた。彼らの実践報告によって、昨年度の日本国語教育学会全国大会の一日目において、「深い学び」における学習者の学びの深さが指導者の教材理解の深さと密接に関わっているということを聞いたのを思い出した。教材理解のみならず、生徒理解や指導事項についても同様のことが言えるのではなかろうか。ともかく、探究と文学の相性の良さは、IB「文学」の実践や酒井雅子先生など様々な人の論じるところである。
→酒井雅子先生の著作は以下。
クリティカル・シンキング教育:探究型の思考力と態度を育む (早稲田大学エウプラクシス叢書)
- 作者: 酒井雅子
- 出版社/メーカー: 早稲田大学出版部
- 発売日: 2017/02/01
- メディア: 単行本
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文学教材の価値として、学習者が探究的に読むこと、それを通して自己と向き合うことがあるのではないか。こうした価値をうまく実践に反映させるために私自身が探究していく必要があるのだろう。
本日も9時から分科会・全体会・講演がある。しっかりと学びたい。