虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

復刊決定! 井関義久『授業への挑戦8 批評の文法〈改訂版〉』

 

  たまたま明治図書のサイトをのぞいた時、この本が復刊投票であと2票のところまで来ていた。投票したところ加えてどなたかが投票して下さったようで復刊が決定。

 

 序は

古文の読解 (ちくま学芸文庫)

古文の読解 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:小西 甚一
  • 発売日: 2010/02/09
  • メディア: 文庫
 

 でもおなじみの小西甚一先生。上記のホームページから転載。

わたくしと分析批評との出あいは、一九五七年のことであった。スタンフォード大学から客員として招かれたわたくしの任務は、研究の場所を与えられ、何でも好きな事をしていればよいというのであった。アメリカの市民と同じ暮らしをして、知人たちを招待したり、またはされたりするのが、わたくしのしごとなのである。どうしてそんな事をさせたのかというと、どうせ学者は研究のほかにすることが無いはずだから、放っておいたところで、研究をするにきまっているし、本人のやりたい事をやらせておくのが、いちばん充実した成果の得られるゆえんだ――ということだったらしい。さらに、純然たる日本の研究者をアメリカの学者とつきあわせたら、どんな反応がおこり、どんな連鎖反応が生まれるかということも、重要なねらいだったそうである。

 わたくしの面倒をみてくれたのは、スタンフォード大学のロバート・H・ブラワー教授で、和歌に関心の深い人である。それに、ロスアンジェルスのカリフォルニア大学からアール・マイナー教授が加わって、三人で和歌の事を論じたけれども、話がよく通じない。これは、わたくしの英語が拙いからというだけではなく、批評のしかたがまるきり違うのである。そこで、話を通じさせるため、アメリカではこんなふうに批評するという方法を、マイナー教授が解説し、幾つかの英詩を材料にして、批評の実際を示すことになった。マイナー教授の英語がよく理解できない所は、ブラワー教授が日本語で説明してくれた。

 マイナー教授は、十七世紀の英文学を専攻する人で、とくにドライデン研究を中心とするが、その研究方法は、作品の精密な分析を基礎とするもので、これはブラワー教授も同様だった。そのとき、参考におよみなさいといってブラワー教授は、クリアンス・ブルックスとロバート・ペン・ウォレンの共著『詩の理解』(Understanding Poetry)および『小説の理解』(Understanding Fiction)、それからルネ・ウエレックとオースティン・ウォレンの共著『文学理論』(Theory of Literature)などをわたくしにくれた。これらの本をよみながら、そのゆきかたで和歌を論じてゆくうち、だんだん話が通ずるようになってきた。その成果は、ブラワー教授とマイナー教授の共著で『和歌』(Japanese Court Poetry)という大冊にまとめられ、一九六一年にスタンフォード大学から出版された。

 この共同研究を通じてわたくしのまなびえた批評方法は、日本にそれまで知られていなかったもので、明治以来の国文学が閉じこもっていた訓詁・考証ないし印象批評の世界に、新しい光をさしこませるであろうと思われた。これを日本の学界に紹介することは、アメリカに招かれた最初の国文学者として、わたくしの責任であると感じたので、一九五八年の秋に帰国するや否や、勤務校での演習にこれを持ち出し、以後ずっと続けている。スタンフォードの人たちが期待した反応は、日米両国において、右のような形でおこった。

 ところで、この批評方法をどう名づけたらよいのか、はなはだ当惑した。ブルックスたちのは、ふつう「新批評」(New Criticism)とよばれるが、これは手垢のつきすぎた名称であり、わたくしが教わったのは、それよりもずっと進歩したものであるから、何か別の名称がほしい。ブラワー教授に相談したら、アメリカでも決まった名称が無いけれど、analytical criticism というのがわりあい適切でなかろうか――ということだったので、それを訳して分析批評とよぶことにした。

 教室で分析批評を試みるのは、かなり骨の折れるしごとであった。まず、術語を訳するのがたいへんなのである。前の学期に使ってみた訳語が思わしくなくて、次の学期には訳しかえるといったようなことが、しばしばであったから、学生諸君の迷惑はひとかたでなかったろう。さらに、こんなふうに説明したら、どう理解してくれるだろうかという実験のため、わざといろいろな説明のしかたを試みたりしたので、モルモットがわりに使われた学生諸君は、わたくし以上の骨折りであったかもしれない。このようにして、分析批評がだんだん定着してきたのである。

 井関義久君は、わたくしが右のような次第であれこれと試行錯誤を繰り返しながら分析批評の体系化に努めていた頃から、わりあい定着した形に落ちつくまでのプロセスを、教室での作業に加わることによって確実に把握した篤学の士である。おそらく、いちばん長年にわたる受講者だったろう。それに、教壇での経験が加わり、分析批評を高等学校の段階で成功させたのである。スタンフォードの人たちが期待した連鎖反応のひとつは、このようにして日本におこった。


  昭和四十七年一月三十一日   /小西 甚一

卓抜の序、 読みたくなりませんか?私からは四の五の言いません。12月21日か22日まで追加注文ができるようなので是非ご自分へのクリスマスプレゼントとして購入を検討してください。。