虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

25歳の誕生日に野望を語る。

孤独を感じるからか例年以上に誕生日ですアピールをしてしまう。

 

 昨年の誕生日は、とある私立学校(ここも緑豊かで敷地が広く良い学校)の3次選考で模擬授業をした後各駅停車で長いこと電車に揺られ、水戸まで行ったのだった。

その学校の管理職面接で母校が緩めの学校であることをつつかれ、受けたところは校則厳しめの学校なのにそれに嬉々として応えたもんだからしっかりと落とされた・・・などという苦い思い出はさておき今年で生まれて四半世紀ということに思い至る。

 

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

 

 今日はオンライン学習の課題を提示し、ノートチェックをした後小雨の音をBGMにこの本を読んでいた。面白かったのでお勧め。例年も静かであるが、今日はそれ以上に静かに過ぎ行く誕生日であった。

人生何事かを為すにはあまりにも短いというが、野望を書いて少しでもワクワクしておきたい。

母校での勤務

これについてはしつこいほどに言っている。「そんなにこだわることか?」とも思うが母校は自分が国語科の教員になりたいと思った原点の一つである。どちらもさほど才能があると思えないものの研究と実践との往還を実現する上でこれ以上ない環境なのだ。定期的に外部の人が見に来るというのも自分としては大きな利点だと捉えている。他の国立大学附属同様めちゃくちゃ忙しいらしいが、勤務校は入れ替わりが激しく、必然的ではあるものの勤務時間という概念のない働き方であるため、(まだゆるーい働き方でその神髄は見ていないが)そこで楽しく働けたら大丈夫だろうと楽観している。また生徒としてうまくいかなかった卒論に指導者という立場でリベンジをしたいというのも理由の一つである。どの人にも母校は複数あるものだが、もう一つの母校である大学にもいずれは・・・という思いも生まれ始めている。

書籍の出版

ここでも語っているが最近その欲望が強くなっている。

hama1046.hatenablog.com

包み隠さず言えば 自己顕示欲もあると思うが、本を契機として世に問うこと、共にその問題を考えるコミュニティを形成したいという欲望なのだろうと今は分析している。

仮タイトルはもう決まっていて、『国語科における〈探究〉とは何か?』である。中身を作りながらカッコいい副題を考えたい。

また、機会があれば実践・研究についての本だけでなく、エッセイや書評本、翻訳書なども手掛けてみたい。この野望は半田淳子先生のエッセイ集『ブルーベルの花咲く丘』や

 

 

 

 などを読んだことが影響している。オンライン、オフライン問わず時間を見つけて書き続けたい。去年の恐らく今頃に買った何も書いていない一冊の本があるのでそこにエッセイ草稿を書こうかなと思っている。

 私の敬愛する元野球選手新井貴浩の背番号25は、私の最も好きな数字なので、勝手に今年は飛躍の年、大事な年なのかなと思っている。

両親が27の時に私は生まれたのであるが、それに関してのことは今のところ到底望みはないので、野望に含めないでおこうと思う。