虎哲の探究

単なる私立校国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

漢文は本当に必要なのか―#こてほん 延長戦

 

 発端はこのツイート。

 影響力のある人間が「意味がない」と断ずることの恐ろしさ。どうせ漢文は無くならないさ!と冷ややかに眺める国語科教員の多さに驚きを隠せなかった。

古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。

古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。

 

  シンポジウム以降微力でも古典廃止論には持てる力で反駁し、現場で声を上げていく必要があると痛感したのだ。

Twitterをやっていなければ、今を輝くアーティストが、漢文の授業に疑義を呈している事実を知る由もなかった。

頼山陽日本外史を研究している同期の存在や大学院の授業でこのことの大きさを感じている。

 

 

古典とアイデンティティ

 今はアカウントを削除された方のお言葉。考えさせられる切れ味のある言葉。

古典要不要にまつわる議論を見てると、結局のところ「古典をアイデンティティーにしている人」とそうでない人の宗教論争にしかなっていないように思われてならないんですよね。そもそも「古典」とは何なのか。それは、ある国家や民族の集合的なアイデンティティーと深く結びついた文学作品だと僕は理解している。源氏物語枕草子が「古典」なのは、それが古いからではなく、日本という国の、もしくは日本人のアイデンティティーを形成したものであるとされているからです。だから「古典」が役に立つか立たないかなんて議論は端的に無意味なんです。そもそも「古典」が「古典」として認められる過程に、有形無形の政治的介入が行われていて、この先時代が変われば何が「古典」であるか、言い換えれば、「古典」の教科書に載せるべきとされる作品は変わり得る。学校には、国籍上日本人でない子供はいくらでもいる。日本で生活していても日本という国を好きではない人もいるだろうし、ナショナリズムそのものに反発を覚える生徒もいるでしょう。それでも、全ての生徒に「日本の古典」を教えますか。それが政治的にどんな意味を持っているか、理解してますか。

 

祖国とは国語って誰の言葉だっけ。

【祖国とは国語 (新潮文庫)/藤原 正彦】を読みたい本に追加 → https://t.co/FlWJTMibvT #bookmeter

祖国とは国語 (新潮文庫)

祖国とは国語 (新潮文庫)

 

本のタイトルだった。アメリカはLanguage Artsだから州のスタンダードが違うことをおいても日本の国語科と全く同じものではなさそう。文学を教える国は「この文学・作家こそ我が国の根幹!」という選択がされているだろう。

偉大な数学者がこうした本を書いているのは興味深い。

www.shinchosha.co.jp

とある私立の採用試験で彼の書いた文章の載った新聞記事をベースに集団討論したのが懐かしい。

 

 この点については柾木貴之(東京理科大学)という研究者の方が熱心に研究されているようで、『月刊国語教育研究』の539号に「英語学習に生きる国語の力とは―国語教育と英語教育の連携を目指して」という論考があるようだ。(2017年、入会前のもので手元にない) 

メタ言語能力を育てる文法授業?英語科と国語科の連携

メタ言語能力を育てる文法授業?英語科と国語科の連携

 

読んでいる途中ですが、漢文も出てきて結構面白いっすよ!(ステマ・アツい母校愛)

 

https://twitter.com/sibuscalaverdad/status/1180985723886829568https://twitter.com/sibuscalaverdad/status/1181108800897441792

https://twitter.com/ani_kinchan/status/1180883233237426178

https://twitter.com/sleep_kokugo/status/1181331794605404160

「教育によって維持しなければいずれ消えていく」という危機感が冒頭で示した思いと重なる。

 

まだまだ教育に物申す!

好きなものをとことん突き詰めていくような学びが初等中等教育でも必要だとは思うが、早くから自分の好きなものだけやっていると出会いが保証出来なかったり、ずっと一つのことばかりやってきて食っていけなくなった(夢を追うことと生きていくこととのバランスといった複雑な問題はあるが)り、不幸な結果を招く場合が多いように感じる。

 ここで先に紹介した『メタ言語能力を育てる文法授業―英語科と国語科の連携』大井和彦「第4章 国語科教員による実践」の最後の一文を引用したい。

 

教員自身がspecialistであるとともに、generalistとして自身の担当教科外への関心を向けていくことが重要である。(138頁)

非常に難しい事であるが特定の教科が生徒によって忌避されたり、「意味がなかった」と断じられたりすることの理由の一つに教員がspecialist過ぎて、生徒の感覚に合わないことがあるかもしれない。教員が担当教科以外に学びを開いていこうとするgeneralistであることで、生徒は知の繋がりを実感し、実利的ではあるが「意味がなかった」ではなく役に立つもの・私にとって意味のあるものへと変えていけるのではないか。

 この点については英語教育の方に意見を聞きたい。英語をコミュニケーションの場で使う手前を学んでいるような。第二外国語を学ぶことにおいてはそれも大事なのでは?と思うが果たして…。たかじゅんの意見を聞きたい。たかじゅんは中興の同級生で英語教育の方ではないです。笑

 大学入試で求められている英語力と中等教育の英語教育が育成を目指す英語力とが完全に一致しているわけではないだろう(大学入試のためだけの中等教育ではないという意味)が、この指摘は肯ける。元々漢文然り英語然り文献の読みを通して知識や文化を取り入れてきた国であることにも関わる。それだけで果たして良いのかという指摘は勿論あって然るべきだが。

考えるだけではつまらない!是非教育の世界へ。(RADファンにしばかれかねない)