虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

【雑感】シンポジウム「高校に古典は本当に必要なのか」に参加して

 1年と4か月半ぶりの再会。

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否定派の意見に震え、肯定派である自分や他の先生方の「楽観」に気付かされ、背筋にひやりと冷たいものを感じながらモノレールに揺られてひっそりと帰ったことを覚えている。

 

 このシンポジウムについては書籍化されているので、是非目を通して頂きたい。

 「必要」という言葉に引っ張られて読まずに批判する人が多いのが非常に残念。

近視眼化した社会で「長い目で見て必要」ということは確かにその通りなんだけど、その姿勢でいるだけなら本当に大切にしたいことが根こそぎ破壊されかねないという危機感は持っておいた方が良いと思う。古典を大切にしてきた人達こそ「必要不要はナンセンスだ」と超然的な態度でいないで考えて欲しい。

 

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前の職場の方に名前載ってますよねと声を掛けられ、冷や汗をかくと同時にこのシンポジウムの注目されていたんだと改めて感じた次第。登壇された先生のご発言を批判する内容だったので匿名でなく顕名でと勝又先生にお願いし、その思いを酌んでいただいたからこそ起こった出来事だった。

今回はオンラインでの開催になった。高校生主体での運営ということもあり、最後には国語科教員全員に大きな宿題(後述)を渡されたが比較的温かい雰囲気で終わった。

運営に携わった方々本当にお疲れさまでした。そして有難うございました。

 

すまう先生の言う「私たち」とは高校で国語を教えている人々を指す。第3弾は生徒の熱い思いを受け取った教員たちが話し合う時なのだ。

第三弾を実施するにあたってパネリストの選択が重要だ。進学校定時制や進学を前提としない学校、日本の試験とは異なる古典の学び方をしている国際バカロレア認定校など幅広い立場の先生をお招きして欲しい。言葉遣いの粗い方や問いを大きくして混乱を招く不誠実な方には勿論声をかけるべきではない。

 早速私淑するIB校勤務の先生がIBにおける古典の扱いについてブログを書いて下さったのでこちらも是非読んで欲しい。

senobi.hateblo.jp

 書き落していたが、「進学校」の先生の枠は予備校講師の方でもよいかと思う。予備校も学校教員向けのセミナーを開講しており、ある意味「進学校」の先生以上にこの話題に敏感かもしれない。

個人的に第3弾は「高校生にどんな古典の授業が必要か」をディベート形式でない形で議論し考える場にして欲しい。否定派の猿倉先生・前田先生にも助言者という立場でいてくださると心強い。

重要だと思ったのは猿倉先生が少なくとも私の受けたような古典の授業は続けるべきではないと述べたこと。個人的な経験は主張に具体性を持たせる上で重要であるが、それを前提とすると、そもそも参加者それぞれに前提が異なるために当然議論が噛み合うはずがない。授業はあくまで個人的経験と考えよう。

猿倉先生・前田先生は古典にくし!とお忙しい合間を縫って2回のシンポジウムに参加したわけではない。先生方なりのお考えで教育を変えていこうとする我々教員にとって有難い存在だ。ゼロから考えるのではなく、あらゆるタイプの実践を共有し、そこから新たな古典教育の可能性を模索しよう。

言葉遣いの粗い方や問いを大きくして混乱を招く不誠実な方には勿論声をかけるべきではない。は非常に強い私の希望である。シンポジウムをコーディネートしてくださる方(恐らく勝又先生や文学通信の岡田さんだが、教員の側から企画が立ち上がってほしい)にどうか届きますように。こてほんを読めば誰のことを指しているか明確なので敢えて個人名は出さない。

第3弾の頃には遠く異国の地で聴講出来ることを切に願う。

 

渡部先生のご発言に対して

 

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 こちらでも渡部先生の発言に注目している。

試験に古典が役に立っているというのは、それはそういう試験だからということでしかない。 ある程度の大学に入るためには古典を学ばなければいけないという構造は科目や親学問の存続の役には立っても、高校生のその後の人生において役に立つとは限らない。猿倉先生の仰る通り追跡調査は必要だろう。

 これには、ガクッと来た。大学入試が古典授業を歪めている誰かが言っていたが、ここをよりどころにしては意味がないと思う。

渡部先生の古典という科目の中に成長があり、教育とマッチするという指摘は面白い。新学習指導要領「言語文化」で意欲的な実践者達によって古典の成長という側面がいかされた実践が多くなされることで耕される領域だと思う。この視点での実践集があれば是非読んでみたい。出版社の方、チャンスですよ。

 時間の都合で詳しく聞けなかった「成長」の内容を詳しく述べて頂きたい。何卒よろしくお願いします!

私が大事にしてきた探究というのもまた古典に参加する一つのあり方なのではないか?と思う。人間・自然・社会について自分の「観」を形成していく時に試験のための読解というところで終わってしまってはもったいない。現代語訳は既に解釈である。解釈を作るため、参加するための文法はやはり不可欠だ。

 

ツベタナ先生に関して

恥ずかしながらツべタナ先生の存在をシンポジウムで初めて知った。

 ご著書も面白そうだ。

 

 

パロディと日本文化

パロディと日本文化

 

 

 

 どれも「言語文化」の授業構想に大きく役立ちそうである。

同僚の先生にツベタナ先生の門下生がいることはなんとも有難い気付きだった。留学生とともに古典を学ぶ経験をしてきたその先生が作り上げる古典はステレオタイプとしての訓詁注釈型授業を乗り越えていく大きな力があるだろう。日本の古典文学を学びたいという留学生の存在はその意味でも非常に有難い。

 ツべタナ先生はシンポジウムにおいても国語教育は間違っているという立場を明らかにした。当然と言えば当然なのだが、私は国語教育が全面的に正しいとも、全面的に間違っているとも思っていない。古典に参加することについて障壁を感じている高校生が多いならば、留学生と共に古典を学んできたツべタナ先生の古典教育のあり方に学ぶことは大いに価値がある。

 和歌における自然・人為の織り交ぜから、日本人の自然との関わりをハーモニーと称したのは興味深かった。「水の東西」における比較文化的な側面から、では日本人の関りはどうだろうと発展していくのも「言語文化」の授業として面白いかもしれない。主題単元的・問いを重ねていく探究的な授業が生まれそうだ。

 

 近藤先生は

A history of Japanese literature (1899) (English Edition)

A history of Japanese literature (1899) (English Edition)

 

 を紹介し、1899年の時点で日本文学が海外で評価されていたことを報告した。自国の文化を知るということは勿論、その文化を他国に発信できるということもまた国際的な視点で古典教育を支持する層もいるだろう。

勤務校には「Literature」というネイティブの先生が担当する授業が国語科とは別の枠組みで存在する。そこからもヒントが得られればと思う。

 

ディベートについて

これは非常に大きかったと思う。肯定派は教室で古典を原文で読む、否定派はそこを突き崩していく形でディベートは行われた。

過去の教科書に財宝が眠っている・・・?

古典の教科書から扱う時代や古典が限定されているというのは古くて新しい重要な指摘である。文学史は読者は勿論、教科書が規定してきた側面もある。自分があまり出会ってこなかった近世文学に生徒と参加していくような授業は出来ないかを模索していきたいところ。東附の尊敬する先生は近世文学専攻だ。

 ディベートのルールに従い自分の立場は括弧に入れて否定派に一票を投じた。肯定派の強調する原文で読むリテラシーは世のなかにとって必要なものだが、古典を学ぶ全員が獲得すべきか?というところで疑問が残り、この議論においてという注意書きが必要だが、高校生の時間という視点で考える際にメリットよりもデメリットが大きいと判断したためだ。論点は多岐にわたり、評価軸をどこにおくかは非常に難しかった。参加者がメリット・デメリットをどのように比較して票を投じたかが気になるところだ。

 

フロアの参加・質問について

無用の用を持ち出さなかったのはなぜっていう質問、言い出したらキリないだろ!と思った。発言者は古典を独学している数学の先生だった。勉強したこと披露したいよね。児童生徒もそうだろうなと思ってほっこり。取り上げるほどでもなく、彼も指名されると思ってなかったっぽいのでかわいそうだった。笑

「彼がチャットではなく、あとでフォームに書いて送ればよかっただけなのでは?」という問題はさておき時間が限られている場では質問の選別が重要だ。質問をした人も彼に発言を求めた不慣れな中で頑張っていた司会の子にも罪はない。

質問の選別は重要で発言の前にフォームかなんかで質問を集めておいて、全体の場で扱う必要のない質問はスルーしておくことも必要だと思った。知人も多かったし、この場に手を挙げて参加して良いのかという想いが、この場に手を挙げて参加したいという想いに勝った。顕名での発言や質問には勇気がいる。

 質問の選別は司会や登壇者の腕の見せ所である。扱うまでもない問い、重要だがすぐには答えられない問いはシンポジウムで全体に共有せず持ち帰ってよいだろう。

 

最後に

発起人の高校生は中学の頃から古典が好きだったが、OCで高校生に質問したり、高校でアンケート調査をしたりするなかで古典に対する熱量のギャップを自覚する。そしてこのままの授業ではいけない、先生方に授業を変えて欲しいと訴えた。彼女の今の探究が、今後古典の研究者や国語科教員になった時にどのようなアイデアを生むのか非常に楽しみである。過去の調査でも浮き彫りになっているが改めて多くの高校生が古典を学ぶことに後ろ向きな現状を踏まえて、「高校生にどんな古典の授業が必要か」を考えることが大きな宿題である。