今まで読んできたもの書いてきたものに向き合い2年間の大学院生活にひとまず終止符を打とうとしている今日この頃、書けることとと書けないことの裂け目でうなりつつ進捗の芳しくない日々を過ごしている。あすこま先生の記事は英語で書くことについて取り上げられている。わかっていることを書き出しそこから調査を進めることの大事さを今頃痛感している。(問いを基にあらかた調べ終えてから重い腰を上げて書くスタイルの私)
指導助言で竹村先生が引用していたジル・ドゥルーズのわかるとわからないの裂け目で人は書くみたいなの出典が分かる方いません?
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年12月2日
広大福山中高教育研究会公開授業の協議会における竹村先生の発言。頼りにしている方にまたもや教えていただいた。以下がその出典と思われる箇所。
「この書物は、別の意味でもまた、やはり弱点の目につくサイエンス・フィクションである。自分が知らないこと、あるいは適切には知ってはいないことについて書くのではないとしたら、いったいどのようにして描けばいいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える。ひとは、おのれの知の尖端でしか書かない、すなわちわわたしたちの知と無知とを分かちながら、しかもその知とその無知をたがいに交わらせるような極限的な尖端でしか書かないのだ。そのような仕方ではじめて、ひとは決然と書こうとするのである。」(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』上17頁)
こちらの本をお勧めいただいた。
「はじめに」を試し読みするに、ガタリと「二人で書く」ということや「ドゥルーズの思想」はいったいどこに見出せるのかという問いを扱っているところに惹かれた。私の人生には大きく影響しなかった(と思われる)喘息にドゥルーズは苦しめられていた事実やリセで受けた哲学の授業に人生を決定づけられたということも興味深い。リセにおける哲学の授業というのはどういうものかいずれ見学等出来たらと思っている。
あと多分どなたかに探究について相談していたときに出てきた発言だっただろうと思うが、書くとは頭の中にある立体的な意見を平面にする行為だっていうのも私の理解が正しいかはともかく、書くということをよく表していると思う。(「頭の中にある立体的な意見」を平面に出来ない人)
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年12月2日
しばらく〈探究〉の視点で今までの高等学校学習指導要領解説国語編を眺めていたので、こちらの記事も興味深い。書くことの指導事項、文章研究については面白いなと思ったものの、〈探究〉の視点で見た際他の記述にあまり惹かれなかったので、改めて見ていきたい。
竹村先生関連でやっとこの本を読み終えたのでご報告。月並みな感想だが古典は研究しつくされることはなく、わくわくする読みを引き出せるのだなと思った。
【言述論(discours) for 説話集論/竹村信治】夏休みから他の本と併読しつつじわじわ読み進め、遂に読破した。(「序」→「附論-古典教室へ」→本編と読み進めた。)先行研究を批判的に検討し… → https://t.co/Wqjsu8B3T9 #bookmeter
— 虎哲 (@TigerSophia61) 2019年12月3日
対象はご専門の関係で中古・中世の作品ばかりであるが、アプローチが真似出来るかはともかく他の時代の文章にも応用が利くものであり、作品との向き合い方として非常に参考になった。とはいえ扱われている作品の殆どを知らず(教科書に載っているような有名なものは除く)援用しているバフチンやフーコーの思想の理解が到底及んでいないので理解度はごくごく低いと思われる。古典を楽しく読むために国語科教員としてのスキルを上げるため、力をつけて再読していきたい。