発端はこのツイート。
漢文の授業ってまだあるの?
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2019年10月5日
あれって本当意味がないと思うんだけど、なぜいまだにあるんだろう。普通に中国語で読める漢文を教えてほしかった。レ点とか一二点とか使って無理に日本語で訓読できるようにすることにどれだけ意味があるんだろう。受験や試験のための科目な印象。前時代的に感じる。
影響力のある人間が「意味がない」と断ずることの恐ろしさ。どうせ漢文は無くならないさ!と冷ややかに眺める国語科教員の多さに驚きを隠せなかった。
シンポジウム以降微力でも古典廃止論には持てる力で反駁し、現場で声を上げていく必要があると痛感したのだ。
Twitterをやっていなければ、今を輝くアーティストが、漢文の授業に疑義を呈している事実を知る由もなかった。
中国古典どころか、日本の歴史書とかも読めんぞ。 https://t.co/jbH5BtQ4Im
— TADA-YAN ∫dx人材 (@xxx_whitechapel) 2019年10月5日
頼山陽の日本外史を研究している同期の存在や大学院の授業でこのことの大きさを感じている。
「漢文を中国語で読めるように教えて欲しかった」を日本語で置き換えると「古文を現代日本語で読めるように教えて欲しかった」になります。
— いいねをして修論執筆を応援しよう! (@NEMOTEAMAT) 2019年10月6日
現代語訳で読むことを古典教育とは言いませんね。
漢文は現代中国語の知識で読めるなんていう幻想は国語教育のどこかで打ち砕かなければならない。
日本の国語教育並びに教員は文学偏重気味なのでやはり言語学や言語そのものの素養がある人が必要なのでは。
— いいねをして修論執筆を応援しよう! (@NEMOTEAMAT) 2019年10月6日
国文学の授業ではなく国語の授業をできる教員はどれだけいるだろうか。
ぼくは言語屋として文学勢とは異なる道を歩んでやるぞ。
いろいろと思うところはありますが、学校を卒業して振り返った時に漢文=レ点、一二点とかっていう記憶しか残っていない、そのような言葉でしか説明できないような人を育てた教育については反省する必要はあると思うんですね。
— 国語科教員 (@coda_1984) 2019年10月6日
こう思っている高校生は少なくないが、国語科教員にも責任はあると思う。なぜ漢文が「国語科」にあるのかをきちんと考え、かつ教えていれば、こうはならないはずだ。教科書に載っているから、試験に出るから教えるのではない。 https://t.co/hvZ56Et2e5
— やまねこ@漢文 (@yamanekokanbun) 2019年10月6日
古典とアイデンティティー
今はアカウントを削除された方のお言葉。考えさせられる切れ味のある言葉。
古典要不要にまつわる議論を見てると、結局のところ「古典をアイデンティティーにしている人」とそうでない人の宗教論争にしかなっていないように思われてならないんですよね。そもそも「古典」とは何なのか。それは、ある国家や民族の集合的なアイデンティティーと深く結びついた文学作品だと僕は理解している。源氏物語や枕草子が「古典」なのは、それが古いからではなく、日本という国の、もしくは日本人のアイデンティティーを形成したものであるとされているからです。だから「古典」が役に立つか立たないかなんて議論は端的に無意味なんです。そもそも「古典」が「古典」として認められる過程に、有形無形の政治的介入が行われていて、この先時代が変われば何が「古典」であるか、言い換えれば、「古典」の教科書に載せるべきとされる作品は変わり得る。学校には、国籍上日本人でない子供はいくらでもいる。日本で生活していても日本という国を好きではない人もいるだろうし、ナショナリズムそのものに反発を覚える生徒もいるでしょう。それでも、全ての生徒に「日本の古典」を教えますか。それが政治的にどんな意味を持っているか、理解してますか。
祖国とは国語って誰の言葉だっけ。
【祖国とは国語 (新潮文庫)/藤原 正彦】を読みたい本に追加 → https://t.co/FlWJTMibvT #bookmeter
本のタイトルだった。アメリカはLanguage Artsだから州のスタンダードが違うことをおいても日本の国語科と全く同じものではなさそう。文学を教える国は「この文学・作家こそ我が国の根幹!」という選択がされているだろう。
偉大な数学者がこうした本を書いているのは興味深い。
とある私立の採用試験で彼の書いた文章の載った新聞記事をベースに集団討論したのが懐かしい。
なるほど。
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2019年10月5日
ひらがなもカタカナも日本語のすべては中国語が大元になっているが故に、英語よりもまずその源となる言語を知ることはとても大事だと思うのです。ただ、その方法論がなんか自分にはしっくりこないという感じ。ただこの説明はとても理解。ありがとう。 https://t.co/TJp6X3wBoD
何が将来役立つか、何の意味があるか、この国の教育のあり方はそもそも正しいのか、疑問はきっと尽きないし学生の時僕も色んな葛藤がありました。でも「やれるだけやってみた」という経験は間違いなく価値があると思います。未だに受験の前の夢とかを見たりする。それくらい僕には大きな経験でした。
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2019年10月5日
○○は授業で必修にすべきか?という議論、時間が有限である以上学ぶ内容に優先順位をつけなきゃいけないのはそうなんだけど、個人の役に立つかだけじゃなくてよりよい社会を作るのに必要かどうか、特に権力監視という観点は重要だと思う。無知で考えない人間が増えた方が権力者にとっては都合がいい。
— すまう(Hitomi Nakajima) (@sumaus) 2019年10月6日
優先度という問題になったときには、他教科、とくに英語教育とのバランスが問題になると思う。そして英語教育の中での「国語力」の必要性というのも、英語教育側からご意見をいただきたいところ。#こてほん
— 忘却散人(Yoichi IIKURA) (@iikurayoichi) 2019年10月7日
この点については柾木貴之(東京理科大学)という研究者の方が熱心に研究されているようで、『月刊国語教育研究』の539号に「英語学習に生きる国語の力とは―国語教育と英語教育の連携を目指して」という論考があるようだ。(2017年、入会前のもので手元にない)
読んでいる途中ですが、漢文も出てきて結構面白いっすよ!(ステマ・アツい母校愛)
英語で読み書きより話すことの流暢さを重視する流れは結構危ないと思うし、古文漢文や歴史公民を学ぶことは死守しないとやばい。
— すまう(Hitomi Nakajima) (@sumaus) 2019年10月6日
数学も数字や論理操作で騙されないように、理科も疑似科学的なものに気づけるように、やはり学んでおいた方がいい。為政者がそういう方面で狂ったり仕掛けてくることはあるから。最終的に得意分野を分担していってもいいんだけど、その前提として基礎を学ぶ裾野は広くしておいた方がいい。
— すまう(Hitomi Nakajima) (@sumaus) 2019年10月6日
権力がこんだけ好き勝手やれちゃうんだというのを目の当たりにするまでは、私もそこまで思ってなかったけどね。本当に。知は力だ。
— すまう(Hitomi Nakajima) (@sumaus) 2019年10月6日
https://twitter.com/sibuscalaverdad/status/1180985723886829568https://twitter.com/sibuscalaverdad/status/1181108800897441792悲しい😭
— 新釈漢文大系プロモーション【公式】 (@sinsyakukanbun) 2019年10月7日
「新釈漢文大系」を高校の図書館で読んで面白かったって言ってくれる人もいるし、好き嫌いはもちろんあるけれど、そこまで意味ない意味ないと連呼されると、、辛いです😪 https://t.co/PBgRXsKkcO
漢文は学ぶ意味がない、という発言。叩きのめしたくなる気持ちは解るけど、◯そういう発言が生み出される社会的・文化的背景とは?(大きな問題) ◯そういうことを生徒に言わせないための授業方法とは?(目の前の問題) ──を考えるための材料と捉えた方がいいんじゃないですかね。
— 千田洋幸 (@ChidaHiroyuki) 2019年10月6日
実際、漢文学習の存在理由に疑いを持ってる中高生なんていくらでもいるんだから。
— 千田洋幸 (@ChidaHiroyuki) 2019年10月6日
現代ヨーロッパ語にとっての古代ギリシア語とラテン語が礎になっているのと同じように、日本語にとっては古いやまとことばのみならず、大陸から伝わった漢文と古中国語が言語的な基礎をなしているから、言葉を理解する上で古文・漢文ともに修めておいた方がよいとは言える。
— 小森健太朗@相撲ミステリの人 (@komorikentarou) 2019年10月6日
https://twitter.com/ani_kinchan/status/1180883233237426178
https://twitter.com/sleep_kokugo/status/1181331794605404160
しかし、漢文教育の意義が現代日本語の成り立ちとかとの関わりだけだとかなり厳しいんじゃないかと思うんですね。
— 国語科教員 (@coda_1984) 2019年10月7日
日本語との関わりはもとより、伝統・文化継承の側面や物語性、簡潔性、雑多性、異質な言語との出会い・・・、いろいろなものが混在しているというのが授業者としての実感です。
— 国語科教員 (@coda_1984) 2019年10月7日
漢文だけを取り出して要不要を言ってもそれこそ意味がない。日本における漢文は隔離された圏域にあったわけではない。基礎的な事項を学習するためには科目にわけたほうが効率的だろうけど、さまざまな日本語の読み書き全体の中での位置を見ることを忘れてはいけない。国語科全体の問題。
— SAITO Mareshi (@mareshi) 2019年10月9日
新しい学習指導要領の「言語文化」は,うまく扱えばそうした観点への動機付けもできそうな気はするけど(楽観的?),「伝統」が強調されすぎているとも思う。むしろ,これまでの日本語のありさまを学んだ上で,日本語の担い手としてこれからの日本語をどうしたいのか,そこに目を向けられれば。
— SAITO Mareshi (@mareshi) 2019年10月9日
言語共同体(と言ってよいかな?)は,それほど強固なものではない。最低限これは維持していこうということがあるのなら,教育によって維持しなければいずれ消えていく。
— SAITO Mareshi (@mareshi) 2019年10月9日
「教育によって維持しなければいずれ消えていく」という危機感が冒頭で示した思いと重なる。
定期的に「漢文いらない」話題が出るお陰で
— KEC@古典読み@ブログやってます (@kec_twitt) 2019年10月7日
「漢文とは」
とみんなが考えてくれて嬉しい。
まだまだ教育に物申す!
学生の皆は全教科を満遍なくできるようになる必要など全くないと思います。この国の教育をそこまで信じる必要もない。英語はその最たるもの。自分の学びたいものをたくさん好きになってたくさん学んだらいい。どれか一つでも飛び抜けて好きになれれば全部平均点の人よりずっと強いと思います。
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2019年10月8日
好きなものをとことん突き詰めていくような学びが初等中等教育でも必要だとは思うが、早くから自分の好きなものだけやっていると出会いが保証出来なかったり、ずっと一つのことばかりやってきて食っていけなくなった(夢を追うことと生きていくこととのバランスといった複雑な問題はあるが)り、不幸な結果を招く場合が多いように感じる。
ここで先に紹介した『メタ言語能力を育てる文法授業―英語科と国語科の連携』大井和彦「第4章 国語科教員による実践」の最後の一文を引用したい。
教員自身がspecialistであるとともに、generalistとして自身の担当教科外への関心を向けていくことが重要である。(138頁)
非常に難しい事であるが特定の教科が生徒によって忌避されたり、「意味がなかった」と断じられたりすることの理由の一つに教員がspecialist過ぎて、生徒の感覚に合わないことがあるかもしれない。教員が担当教科以外に学びを開いていこうとするgeneralistであることで、生徒は知の繋がりを実感し、実利的ではあるが「意味がなかった」ではなく役に立つもの・私にとって意味のあるものへと変えていけるのではないか。
日本でまじめに6年、9年間英語の授業を受けてもほとんどの人が英語を話せない。そんなの普通に考えておかしい。アジアでも抜きんでてると思います。国民性もあるのかもしれないけど英語教育のあり方がズレているのは周知の事実と思います。教育のあり方を大人はどこまで考えているのか疑問に思います。
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) 2019年10月8日
この点については英語教育の方に意見を聞きたい。英語をコミュニケーションの場で使う手前を学んでいるような。第二外国語を学ぶことにおいてはそれも大事なのでは?と思うが果たして…。たかじゅんの意見を聞きたい。たかじゅんは中興の同級生で英語教育の方ではないです。笑
そもそも大学入試の英語は、大学で文献を読むための基礎力を身に付けるものであって、対象となる人が限られている。ゆえに、大半の人が「英会話」を「英語学習」とみなすのも無理はないし、そういうクラスタがあってもいいかなあとは思う。
— 日永田 (ひえいだ) 【英語講師】 (@shinhieida) 2019年10月9日
大学入試で求められている英語力と中等教育の英語教育が育成を目指す英語力とが完全に一致しているわけではないだろう(大学入試のためだけの中等教育ではないという意味)が、この指摘は肯ける。元々漢文然り英語然り文献の読みを通して知識や文化を取り入れてきた国であることにも関わる。それだけで果たして良いのかという指摘は勿論あって然るべきだが。
考えるだけではつまらない!是非教育の世界へ。(RADファンにしばかれかねない)