虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

教えることの「恐ろしさ」と向き合う

自分も3週間ほど甲斐先生の国語教室に通っていたにも関わらず、あすこま先生のようにその学びを形に出来ていない。甲斐先生から学びは言葉にして初めて力になるということを聞いていたのに恥ずかしいばかり。学びを自分の心のうちに寝かせるのでなく、その一部を形にしたいと思う。

 授業後甲斐先生に、「○○君△△でしたね!」と言うと、「そうでしょ、〇年の頃の△△という単元ではね…」と嬉しそうに話してくださったことを思い出す。本当に一人ひとりの学びについて考えながら授業をなさっているのだ。

 自分が『学び合い』に対して持っている違和感の根はここにあるのかもしれない。極端な話、『学び合い』がうまくいっていれば教師が生徒の学びを見ていなくても授業が成立する。生徒同士の『学び合い』で各授業ごとの目標を達成しさえすればよいのだから。課題設定以外に教師の専門性が必要なく、生徒のことを見ていなくても成功するのだ。正直生徒が自力で解決できる程度の学びで成長が見込めるのかは大いに疑問だ。また授業1回で学びが収束することの方が少ないように思える。個々に違う課題を選択して行う場合はないのか。何より「主体的・対話的で深い学び」との対応関係が掴めない。

 全ての授業を『学び合い』で行うことに懐疑的なように、全ての授業を一斉教授や個々の学びで行うことにも同様に懐疑的だ。その点甲斐先生の授業ではフレキシブルでバリエーションのある学習指導が展開される。例えば古典の授業ではマシンガントークといって、甲斐先生の解説を黙って聞き、メモを取る学習活動がある。全員が共通に学んでほしいことがある場合このような一斉教授の効果が最大だと思う。全ての授業を『学び合い』を通じて学習したことで、仮に聞き書きや人の話を聞く能力のない生徒に育った場合今後の人生で大いに苦労するだろう。「子どもの力を信じよ」という美辞麗句に教師が翻弄され、必要な力を伸ばされなかった生徒は不幸だ。学校教育によって全ての力が過不足なく伸びるということは幻想に近いだろうが、教師が特定の学習法に固執する場合に必要な力の伸ばし漏らす可能性の高さを否定することは出来まい。身につかない一斉教授のアンチテーゼとして『学び合い』に価値があるが、教師が生徒を見ることや自身が学ぶことが必要なくなるような教え方は何にせよ好みでない。『学び合い』を学んでいる教師を否定するのではなく、あくまで私はそれを好まないというだけである。当然彼らは生徒を見ているだろうし、自身も学んでいるだろうが『学び合い』というシステム上それらが授業の良し悪しに全く反映されないと思うのだ。

教師と生徒との双方向的な学びの価値はAI時代だろうが必要不可欠ではなかろうか。

 

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

 

 久々に読み返して、また学部生時代のように説教食らったような気分になりたい。

 教壇に立つ以上教えることの「恐ろしさ」と向き合い続ける。自分の教えたことが誤りだったらどうしよう、自分が教えたことでその教科に関わることを嫌いになったらどうしよう、など。誰が言ったか「まともな考え方をしていたら教壇には立てない」と。その言葉の一端を学んだ気がする今日この頃。その「恐ろしさ」に向き合う覚悟はあるか。「覚悟、—覚悟ならない事もない」