虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

第三項理論が拓く文学教育とは

日文協は変わりつつある組織であるかもしれない

 一介の院生ごときが生意気であるが、正直な話、日文協に対して良い印象を持っていなかった。

当該論文は以下である。(「日本文学」に十年前に書かれた論文である。)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/8/57_KJ00009522009/_pdf/-char/ja

 しかし、昨日今日と研究会に参加させていただく中で上記のような負の側面をひとまず看過することにした。というのも、国語教育と文学研究との交差が果たされるうえで日文協が鍵を握っているのではないかと思うようになったからである。

 

 

 近代文学演習で大いに参考にさせてもらったこちらの本も日文協の方々の著作である。

 

高校分科会での衝撃

 当該ツイートにおける「突然指された」とは全体協議の沈黙の中で司会の方に発言を求められたということである。(言葉足らず)これ以前に、発表者の方に対して第三項理論や機能としての語り手ありきでテクストに向かってはいけない、叙述に即して仕掛けを紐解く中で機能としての語り手の存在が見つけられるのだとフロアの方が滔々と諭していた。そうした話の流れを追うのに必死だったので、ひとまず今までの話はこういうことですか?という素人全開の質問を発表者及びフロアの方に投げ返してみた。その質問に丁寧に解答してくださったのが田中実氏だったのである。以下にその粗雑な要約を示す。

・叙述に即して読むとは叙述の中で構造性を解明すること。

・小説は構造化されている。プロット(構造・時系列でない)をストーリー(時系列)に整理し、How?からWhy?を考える。(例えば、どのように書かれて語られているかから何故このように書いた語られたのかを考える)

・構造分析テクスト論の生じた経緯とそれらと第三項理論との差異(他者そのものの想定と自己倒壊の有無)

・解釈しようと働きかける、理論を当てはめようとして読むのではなく、叙述に身をゆだねるようにして読む。(非常に難しい)

 読みに対するアプローチ方法を知ってしまうと、どうしてもそれを適用して読もうとしてしまう。そうではなく、叙述を徹底的に見ていくことによってこそ構造を解き明かすことにつながるという。やはり、小森陽一氏のこの論文が思い起こされる。

成城大学リポジトリ

 

全体会での協議

 それぞれの分科会での問題意識は重なる部分が多かった。それをあえて一言で言うならば教師の読みと学習者の読みとの関係についてである。以下に議論された発言内容を箇条書きで示す。

・「教師の読み」と「子供の読み」とに優劣も区別もない。(そもそも読みに正解はないから)

・分析的に装置を見ていくことが子供の読みの切実感を損なうのでは。

・価値の物差しを持ったまま(意味づけ・ラベリングは近代以降の問題)では読むことの〈価値〉の創造に至らないのでは。

・教師の仕事は小説の仕掛けを仕掛けとして機能させること。しかし、必ずしも「仕掛けを学んでから」とはならない。

・仕掛けに気付けるかは世界の見方と関わる。これは訓練しないと見えてこないのでは。(上の考えとのジレンマがある。しかし、どちらの考えも頷ける)

・装置の存在に子供は直感的に気付く。教師の読みはこれを見とれるかに大きく関わる。

・加えて教師の読み以外の子供の読みをいかに拾えるかが鍵となる。

 こうした議論からも見えてくるように、日文協は正解(と教師が考える)の読みへと強引に引っ張るようなありかたを望んでいない。しかし、「なんでもあり」に陥らないようにするために教師自身がしっかりとした読みを持っていることが求められることについてはおそらく全体として共有しているのであろう。また、全てを第三項理論で片づけるのではなく、正解はないとしつつもより良い読みをしていくうえで何が必要かを探究している学会であるといえる。第三項理論が持つ価値について、昨日購入した日本文学(2018年8月号)の田中実氏や難波博孝氏の論文を読み検討したい。

 →以下の本も素晴らしいものだと聞いている。是非今年度中に読みたい。