虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

教室の読みにおける進度の問題

発端はこのツイート。

勿論、はこせんさんは当該ツイートの『進度・効率を優先して、何を生徒が学んだかを見ていない』教師ではないだろう。しかし、その1行の学びがどのようなものであったかを度外視して『高校国語の授業として相応しいのかなという疑問は持つべきだ』と断ずるのはあまりに早計と言わざるを得ない。件の『大学時代の同期』が授業の進度のみを是として、仮に生徒が「この一行についてよく考えたい」と言ったことを契機として行われた授業を笑い話としているならば、問題の根は深い。

あすこま先生の言う『伝説的な漢文の先生』も進度という物差しのみで測るなら、教師失格かもしれない。しかし、『急遽の代行』によって多くの生徒の漢字に対する関心が少しでも高まったことを考えれば、一概に授業を断じることは滑稽である。

こうした先生方の考え方は基本的に私の指導観と合致する。

教科書における『こころ』の扱われ方に関する問題は小森陽一氏の以下の本に端的に示されている。

 

 9年前の本であるが現状としてここに示された問題は解決されたと言い難いことを大学院の授業の発表において明らかにした。『こころ』に関しては思い入れのある教材なのでいずれブログで私見を論じたい。

教室の読みにおける進度の問題としてテストとの関係も挙げられる。

この現状が授業の「効率化」を促しているのではないか。ある高校生が授業内容を基にテスト勉強したら全く違う問題が出てきて今までの授業は何だったのかと思ったという話を聞いた。

授業は違うのにテストは同じというのは、生徒の混乱や「授業を受けても無駄だ」という無力感につながりかねない。学校外では違う教科書、違う授業、違うテストで行われているのである。ある程度の同意が図れれば、テストや評価までそろえる必要があろうかとも思うのである。

何はともあれ

一堂に会しているわけではないが、考えを交し合える。ここにSNSの良さがあるように感じるこの頃である。