虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

日本国語教育学会全国大会2日目の振り返り①

今日も日本国語教育学会全国大会における学びの振り返りを行いたい。

 

校種別分科会18 高等学校(書くこと)

 

「表現することへの意欲を高める指導について」(岸田潤子先生)

 岸田先生は昨年度高校の非常勤講師として1年間勤務した際に行った実践を経験をまとめていた。それ以前に小・中の教員を30年ほど経験していたため(割合は1:9)、その経験を生かして徹底的に生徒の実態から実践を行っていたのが印象的だった。まず、岸田先生は生徒の言葉の持つ力に関する関心の薄さや聞くことが不得手である実態を捉え、百人一首を行った。百人一首という教材の選択は、学習者のほとんどが小学校時代に行っており、聞くことの必然性が伴うという理由からであり、この判断は生徒の学習歴の活用を重視していた岸田先生ならではのものと思った。聞くことのできる状態にしてからは、「あなたの好きな音楽を紹介しよう」「俳句を詠もう」「自分の感性でポスターを作ろう」などといった書くことの実践を積み上げ、表現することの意欲を高め、4月当初何も書くことがなかったKという生徒が3学期期末テストの解答用紙を埋めるまでに変容した。

 この実践に関しては2点質問し、回答いただいたので以下に示す。(※言うまでもないが、メモ書きと記憶を頼りに作成しているため、正確なものとは言えない。要点の参考までに)

①書くことのテーマ設定のために学校図書館を積極的に活用なさっているが、そうした指導の際に工夫していることは何か。→学校図書館の活用はとにかく生徒に言葉や文字に触れさせる経験をさせたかったためである。その際に取り立てて指導することはしないが、司書の方と協力して必要な書物をまとめたブースを作り、その中から選ばせるようにした。時には県の図書館にも協力いただいた。

②形式としての書くこと指導としてはどのようなことを行ったのか、小中高の学習の系統という視点から教えていただきたい。→取り立てて指導しておらず生徒に任せている。というのも小中の先生方の熱心な指導により書く力はすでについていると考えられるし、全てを網羅的に指導しようとするには授業時数が足りない。また、形式の指導は授業者が書いてほしいものを要求しているといえるし、何より生徒の表現したいという意欲をそぐことにつながりかねないと判断し、表現することの意欲を高めることを主眼においた。

学習者に意欲がなければ、授業者がいくら手を尽くしても残るものはほとんどない。どうもスキルの指導に走りがちな私に、意欲をどう高めるかについての示唆を与えてくださる実践だった。

指定討論者の鈴木一史先生(中学時代に国語(表現分野)の授業を受け持っていただいてたという贅沢)はARCSモデルについて紹介しつつ、当該実践の価値づけを行っていた。

Attention(注意)導入の工夫などがこれに該当する。学習場所などを少し変えてみることなども有効だそう。

Relevance(関連)「高めたい意欲」として「小中学校での学びを生かそうとする意欲」が挙げられていることにまず価値がある。自己と学習をどのように結びつけるか。

Confidence(自信)「やればできそう」

Satisfaction(満足感)次の学びに向かうために正当な評価が求められる。

個人的にRelevanceをもともと重視していたのでこれでよかったのかと思うと同時に、他の要素に関してもどのようなアプローチがあるか検討しなければと感じた。

同じく指定討論者の田中孝一先生は評価について主に述べていた。学校の実態に合わせて教科の達成すべき目標を再設定して、その達成度を測るものが評価であること、評価の妥当性を証明するものが必要であるということおっしゃっていた。

テスト以外の多様な評価方法を取り入れたいと考えているが、その際の妥当性(下した評価及び評価の仕方自体)の保証についても学ぶ余地があると気付かされた。

また、フロアの質問を踏まえ、田中先生は実践における書くテーマが自分ごとにより過ぎていたことを指摘し(岸田先生の考えによれば、まず自分を出発点にするという意識があったそうである)、今後の学習を考えると相手・目的意識を持たせる実用文の指導へと展開することが望ましいのではと提案された。

実用文を書くことは必要だが味気ないとも感じていたのでとても新鮮な指摘だった。

当該実践は兎にも角にも学習者の実態に寄り添ったものであり、生涯表現に向かう意欲を持ち続ける生徒育成に資するものだったと考えられる。

 

「高等学校国語科単元学習に資する学習材を求めて―「興味・関心」を喚起する仕組み」(田中慎一朗先生)

発表の前半は単元学習を行いたいものの、進学校の性質上周囲の教師も、また生徒も求めていないという現状を滔々と述べており、正直なところ「何を聞かされているのだ」と思ったが、こうした苦悩を抱えている先生も多くいるのだろうと身につまされる思いだった。また一方でこうした苦悩を抱かずに旧態依然の姿勢を貫く幸せな教師もそれ以上に多くいるのだろうと思い、自身が今後どのような現場につくのかと不安になった。発表の後半は「妙なる屍」(たえなるかばね/カタヴール・エクリキ)というフランスのシュールレアリストが考案した言語遊戯から着想を得た学習活動の実践報告だった。学習活動「妙なる屍」の概要を以下に引用する。

・空白のA5サイズ(A4サイズを半分にした大きさ)の用紙を配布する。

・その用紙に思い付いたまま「何か」を記入する。(書かれたものを集めて「詩」を作

 ることを口頭で説明した)

・教室の座席順で各列最後尾の者が用紙を回収する。

・最後尾の者は、集めた用紙に書かれ内容を見ずに混ぜ合わせる。(この作業は割愛し

 てもよいことを口頭で伝えた)

・各列で回収した用紙を1枚1行で黒板に板書し「7行詩(列によっては6行詩)」とし

 て発表する。

・学習者は自分の列の作品をノートに写し、その詩に題を付けた上で解釈を試みる。

ワークシートの分析や生徒の反応から、「妙なる屍」がが学習者の「興味・関心を喚起する」学習材として適していると結論付けている。

フロアの意見として、一斉講義型の学習もアクティブになる可能性があるとしつつも、自分で考えるというアクティブさは欠落しやすいためやはり何らかの外化が伴う必要がある、関連の無い文字列に題を付けることは抽象的思考の学習としてよいだろうなどがあった。

鈴木先生は倉澤栄吉氏筆者想定法の「読解と表現の握手」という言葉を引き、自分が表現することで書き手を分析するという手法を紹介なさった。

田中先生は教材化のためには目標とする力の想定と関連が必要であること、ただ興味・関心を喚起するだけでなく、目標に応じた興味・関心の喚起が必要だと指摘なさっていた。

「妙なる屍」は無から有を創出するもので、利用価値があると思い、実践に生かしたいと思った。

 

少々長くなってしまったので、大学部会のシンポジウム等については明日述べたい。