虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

ペダゴジカルな三角関係

 母校で尊敬する先生からお話を伺うことが出来たので、それをここにまとめたい。

 まず、無学にしてその先生が修士課程に在籍されている時に研究なさっていた垣内松三(かいとうまつぞう)氏について存じ上げなかった。垣内氏は国語教育の源流を形作った人であり、国語に文学を取り入れた人でもある。実用的な国語に傾きつつある昨今、文学を教材として扱うことにどのような意義があるのだろうか。文学教育はロシアや西洋諸国、IBでは一般的であるが、だから必要だ!という考えは思考停止であろう。国語教育の源流を形作った人が、また文学を主たる教材として扱う国々がどのように文学を教材として扱う意義をどのように考えていたのか検討していく必要があるだろう。くれぐれも文学を教えることに傾倒しないようにしたい。先生は修士課程で垣内松三氏の研究をする傍ら、先生の師匠たる方から人間と言葉との関わりとは何かというお話をなさっていたそうでそのことが現在の実践の屋台骨になっているのだろうということだった。国語科にとって永遠のテーマであろう。

 

 また、私がアカデミックな視座を得たいと他大学の院を受験した話をさせて頂いた際に、先生はアカデミックな考えももちろん重要だが、これからはますますペダゴジカルな視点が必要になってくると教えてくださった。いわば、教師自身が出来ることと目の前の生徒、社会の動向との三者を意識した実践が必要になる。自身が出来ることと社会の動向との二者のみを勘案した実践は眼前の生徒が必要としていることとのズレが生じてくる。生徒たちがどのような人生を送り、どのような国語の力を必要とするのか考える必要がある。また、自身と生徒との二者のみを勘案した実践は即時的なものになりがちで、その場では良いが長期的な目で見た際に実生活で活きる国語の力を付けていくという側面が欠落する。生徒と社会との二者のみを勘案した実践は前2つと比較すれば幾分かマシであるが、代替可能な味気ないものになることは明白だろう。実践に当たってペダゴジカルな三角関係を意識することは必須だ。

 

 私は大学院に行って、自身の実践の屋台骨となるような考え方や知識・技能を持つことを目指す。そして、アカデミックとペダゴジーとの中庸において、ペダゴジカルな三角関係を意識した実践を行える研究的実践家として奉職したい。先生にお話を伺いそうした想いを強くしたのであった。