虎哲の探究

一介の公立中高国語科教員の戯言。未熟者による日々研鑽の記録。

全国漢文教育学会教育講座2日目②

先日に引き続き。3日目については明日。

 

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交流会

 教育講座において初の試みだという交流会(休み時間で行ったことはあるそう)。各グループ10名ほどで自己紹介、漢文の指導で困っていること、新学習指導要領への対応、漢文教育研修会への要望などについて意見交換をした。

 交流会を講座の中に組み込むというところに全国漢文教育学会が新しい教育に向けている本気度が伝わってくる。しかしながら、そんな想いも空しく、偉い先生のご講義が聞きたい!会員同士で話してもしょうがないだろ!という先生が数名帰られたそうである。彼らは上から下に流れるという知識観から抜け出せないのだろう。自らが協働せずにこれからの教育の波を乗り越えられるのだろうか、またそれぞれに事情はあるだろうが6コマあるうちの1コマぐらい力を貸していただけないのか。いずれにしても同僚にいて欲しくないタイプである。

 交流会においては様々な立場で教育に携わっている方の悩みや考え、経験を聞くことが出来た。まずは以下に漢文指導でお困りだという悩みとして出たものを示す。

・漢文専任ないし専門性のある先生が減り、かつ教師自身が漢文に興味を持っていない。どのように漢文好きな教師を育てるか。

・音訓の感覚すら希薄になってきているほど漢字の読めない生徒にどのように漢文指導をすべきか。

・自身が漢文を読めない。(訓読というよりも背景知識の不足)

中高一貫校における漢文のカリキュラム編成をどうするか。

・漢文の時間が取れない。(3年間で2.5時間ほど)

時代の変化に伴い様々な要因で漢文の扱いが減ってきている実態があるようだ。加えて教師の側が漢文に対する興味・知識を持つためには、当然のことながら読書や学会参加など地道な努力が必要だということで落ち着いた。国語科の教員は、私の専攻する国語科教育学だけでなく、日本文学(上代・中古・中世・近世・近代・現代などの時代だけでなくジャンルの違いもあろう)、漢文学(日本と同様)、国語学、(最近はメディア・リテラシー)など幅広い分野の知見が必要になる。全てについて専門といえるまでの知識をつけることは難しいにしても、苦手だから好きじゃないからという理由で全く扱わないということは問題である。全体会で出た話を先取りして言うと、大学において高校で全く漢文について学んでいないという学生が毎年数名いるそうである。実際にそういった指導をしていた先生に話を聞いたところ「私漢文嫌いなので」と言われたという。入試で扱う大学が少ないにしても、全く扱わないというのは明確な越権行為ではあるまいか。大村はま先生が教壇から引き釣り下すレベルの業人、なんとも胸が痛い話である。漢文に割ける時間の少なさに関しては(本当は学習指導要領の通り古・漢の偏りなく扱うべきだろうが)ますますの指導事項の精選や指導の工夫が求められる。農業高校に勤めていた先生は、生徒が授業で菊を育てていた時期に菊を扱った漢文を題材とした時いつも以上の食いつきや授業の深まりが出たこと、象形文字について扱った時「馬などは何故横から見た形なのか」「人も横から見た形だと知っていたなら金八先生のような誤解は生まれないのに」などといった食いつきを見せたことなどを報告し、学習者の興味・関心に注目した授業のあり方の重要性を示唆していた。

 新学習指導要領への対応についての話ではどこの学校もあまり話題に上がっていない(日々の業務で手一杯でありしたくても出来ない)という実態を知り、現場の大変さを痛感した。改めて大学院で学んでいる私が動向を学び、現場へと還元していかなければいけないという責任を感じた。新学習指導要領下でどのような漢文指導ができるかは考えるべき問題であろう。

 グループの先生方の漢文教育研修会への期待・要望としてはいわゆる定番教材の扱い方や指導に使える知識が多かった。私は新学習指導要領下の実践に資する教材開発や提案を希望・要望として伝えたが、司会の先生から教科書における漢文教材は精選されつくしているから扱い方が変わったとしても中身は変わらないという見解を言われただけであった。半分その見解に納得しつつも、全国漢文教育学会を挙げて新学習指導要領下の漢文教育を先導していこうという気概をもって探究して頂きたかったテーマだっただけに失望があった。

 交流会全体は知識の浅い私にとっては非常に有意義だったが、考えの深まりという点で他の参加者にとっては今一つだったのではないかという感想を持った。予め与えられたテーマについてアンケートを取り、焦点化してグループで話し合うという形式でもよかったのではないか。また、司会の先生とグループの先生との話す割合が1:1であり、基本的に発言者と司会のやり取りに終始し、グループの先生同士で話すということが少なかったのが決定的にまずかったように思う。

 

交流会後の全体討論

 休憩をはさみ、全グループの内容の報告と全体協議に移った。当然のことながら全グループの報告はおおよそ似通ったものであった。上に示した交流会(第4グループ)において出なかっただけをかいつまんで示す。

第1グループ・・・国語総合と新テスト(現高1が直面する問題)、アクティブ・ラーニングとの対応、『こころ』『山月記』と漢文との接点

第2グループ・・・レベル差のある学級にどうアプローチするか、漢文を学ぶ動機付け

第3グループ・・・同じ教科を持っている教師との申し合わせについて

第5グループ・・・ICT活用、楽しみながら学ぶことと定着とのバランス

 以上から、①生徒の興味・関心にどのようにアプローチするか②足りない時間でどのように工夫するかについてを全体で討論した。

①生徒の興味・関心にどのようにアプローチするか

 第5グループの先生が、生徒にその日学んだ句形を使った漢作文・漢詩を創作させ、ロイロノートに提出させよいものを共有するといったICTの活用事例を報告なさった。他の先生は漢文への抵抗をなくすため漫画を活用していること、漢詩の英訳や中国語の漢詩朗読CDを活用していること、唐詩の読み書きで読み解く視点を与え歴史上の人物の書いた日本漢詩の批評や作者当てを取り入れていること、写真やDVDを見せ漢詩の風景を見せるといったことを報告した。私は大学院の授業で学んだ黄遵憲『日本雑事詩』が現在の「外国人から見た日本」ブームと符合しているため生徒が興味・関心を持ちやすいのではないかと発言した。生徒の興味・関心を喚起する題材・指導法を見出すためには、幅広い知見と学習者の適切な把握が必要だと司会の方が総括された。

②足りない時間でどう工夫するか

 交流会の内容と重複する部分が多くあった。年間指導計画を学校のインターネット上で共有しているため、前年の年間指導計画を下敷きにどういった指導ができるかを考えられるという私立高校の先生の報告があり、自分の赴任する学校もそのような体制が整っていればいいなと感じた。

 

おまけ

 同じグループに小石川中等教育学校に勤務されていた先生(現:筑波大学附属高等学校)がいらっしゃり、小石川の探究カリキュラムや国語科との関連について伺うことが出来た。それだけでなく1~5年まで持ち上がりで持たれていた時に実践された指導内容及びそこで行った活動や身に付けた技能についての資料をくださった。いろんな学年や教科を担当する(母校はこの体制)のもよいが、持ち上がりも魅力的である。灘は6年持ち上がりで、担当学年の教科は全て一人で担当するということをIBセミナーで聞いた。発表内容も素晴らしく、私の研究にドンピシャだったので質問させて頂いた。その後の懇親会でお声かけ下さり、名刺も頂いた。理知的でユーモアセンスもあり、さすが灘の先生は違う!と圧倒されたのは良い思い出。

井上 志音 - 研究者 - researchmap

頂いた資料を拝見させていただく限り、探究に必要なスキルの育成が随所に施されている私の目指すべき指導の具体だと感じた。有難いことに、今後私の研究に関わる実践記録等の資料をメールでくださるそう。その先生及び素晴らしい出会いに感謝である。

皆さん、学会・研究会に行きましょう!(余計なお世話)

全国漢文教育学会教育講座2日目①

 

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 先日に引き続き。

 

私の『論語』の教え方(影山輝國氏)

 影山氏は論語及びその注釈について研究している方である。非常に博識な方で、どの話も聞いていて心躍るような内容だった。

 そもそもなぜ日本人の古典として『論語』を学ぶのかの一つの答えとして、史実によれば応神天皇十六年(四世紀頃か)、百済から王仁がもたらした日本人が初めて見た本であったからということがあげられるという。この頃の本は竹簡であり、その竹簡が並んでいる形から「冊」の字が出来たとされる。この頃の本が貴重であったことは、この竹簡を台にのせている様子から出来た「典」からもうかがえるという。また、教科書編纂に携わっていたことから、高校の教科書における漢文の三本柱として、『論語』『史記漢詩を挙げ、これらはどの教科書にも必ず載っているという。このことから『論語』はその思想及び中国の文化がいかに日本に伝わったのかを見る教材としても価値があると指摘する。

 音韻史から「論語」や「孔子」は何と呼ばれていたかを資料をもとに紐解かれた。呉音読みならば「論語」は「ロンゴ」で「孔子」は「クジ」である。『源氏物語』胡蝶「恋の山には孔子(クジ)の倒れ」という言葉がある。漢音読みならば「論語」は「リンギョ」で「孔子」は「コウシ」である。桓武天皇の漢音奨励(延暦十一(七九二)年閏十一月の勅)によって、それまで普及していた呉音が漢音に切り替えられていく。(当時は隋や唐などの北部で使用された漢音が主流であり、当時学んでいた南部の呉音は通じなかったと遣唐使が伝えたからだとされる)ふりがなのふってある最も古い資料建武四(一三三七)年鈔本から江戸前期刊本『傍訓論語』は全て漢音のふりがなで書かれている。嘉永三(一八五〇)年刊本はふりがなが呉音であるが、「孔子」のふりがなは漢音の「コウシ」である。この話と合わせてなさっていた数字の読み方における呉音・漢音の話に移った。以下にそれぞれの読み方を示す。

(呉)イチ・二・サン・シ・ゴ・ロク・シチ・ハチ・ク・ジュウ

(漢)イツ・ジ・サン・シ・ゴ・リク・シツ・ハツ・キュウ・シュウ

今私が使っている数の読み方は呉音が多いのだと気付かされた。また、「よん」・「なな」というは「よっつ」「ななつ」という和語から砲兵隊によって作られたという話を初めて聞いた。(砲兵隊において聞き間違いは許されないため、紛らわしい読み方は変える必要があったそう)

 続いて『論語』の基礎知識についてのお話に移った。周知のとおり『論語』は孔子の没後、弟子や孫弟子たちが集まって編纂した言行録である。『論語』というタイトルは弟子たちが孔子の「語」を「論」じあって編纂したからだという。真偽はともかくタイトルについて全く考えたことがなかったので新鮮だった。また、漢代に『論語』は魯論(現在の二〇篇と同じ)・斉論(魯論「問王」「知道」篇が多い)・古論(孔子の旧宅の壁から現れた。古代の文字で書かれている。「堯曰」篇が「堯曰」「子張」の二篇に分かれる)篇数・内容も異なる三種類あったこと、後漢の末鄭玄が魯論をもとにして古論・斉論を考え合わせ現在の『論語』の原型を作ったことなどは今日初めて知った知識である。日と曰(口と舌の象形)は成り立ちの違いから字形の縦横の比率が異なるという教え方をすれば良いという豆知識も面白いと思った。現在の『論語』は約五〇〇章(約なのは学説によって章の分け方が異なり未だ確定していないため)が二〇篇にまとめられている。

 論語の主要な注釈書とその成り立ちの話も興味深かった。魏の何晏ら四名によって作られた所謂古注『論語集解』(シッカイと読む。入声音-フ・-ク・-ツ・-キ・-チ+p・t・k・sが促音化するため。国語学の講義が懐かしい)、宋の朱熹によって作られたいわゆる新注『論語集注』(同上の理由でシッチュウ)伊藤仁斎の『論語古義』荻生徂徠の『論語徴』が扱われた。『論語集注』は当時道教に対抗する思想として理・気二元論で論語を注釈したもので、それに対し『論語古義』は当時理・気二元論の考え方がないだろうとして孔子没後一〇〇年ごろに作られた『孟子』の言葉で解釈を試みた。『孟子』よりもさらに『論語』の書かれた時代に近い五経の言葉(用例を集めるという意味の「徴」)で解釈を試みたのが『論語徴』である。注釈書も既存のものに対する批判という発展の仕方があるということに気付かされた。同一章の注釈を扱って比較してみると面白いのかなと考えた。

 今回のお話で最も面白かったのは字の付け方や役割についてである。字の付け方に関しては「名字相応」「名字相配」という考え方があり、名と字は何らかの対応関係があるとされる。孔子は名が丘字が仲尼であるが、「尼」という字は孔子の母が「尼丘」という所に祈って生まれたことに由来する。名と字合わせて「尼丘」となるわけである。「仲」の字は次男につくことが多いものである。(長男は「伯」、次男以降は「叔」、末っ子は「季」を用いるそう。)子貢は姓を端沐(二字姓)名を賜という。名と字の対応は「貢」「賜」と対になるというものである。もし、私に字があれば「伯地」だっただろう。原則相手の名を呼び捨てにするのは失礼で同輩や後輩は字で呼ぶそうである。逆に名で呼ぶ場合は

①目上が目下を呼ぶとき

②自称するとき

③君主や師の前で他の臣下や弟子を話題にするとき(君主は基本名のみしか知らない。敬意は対する相手に対してのみでよいもしくは優先される)

④相手を罵るとき

⑤人に紹介するとき

だそうである。(実際は用例を基に検討したが省略)授業で扱えるかは別にして、こうした呼び方という視点で『論語』を見るのも面白い。

 『論語』の教え方に多くのヒントをもらった。力尽きたので交流会での議論は明日に回す。

 

 

全国漢文教育学会教育講座1日目

 今年から全国漢文教育学会の会員になりました。入会のきっかけを端的に言えば、6/17の大会を経てここで学びたいと感じたことと、会費がお安かったこと。会員の年齢層は比較的高めだが、お声をかけてくださる先生方は概して鷹揚で心惹かれる。

全国漢文教育学会

 

漢詩を読み直す―訓詁、考古、翻訳を手がかりに―(松岡榮志氏)

 松岡榮志氏は東京学芸大学の名誉教授で、六朝文学や漢詩、中国語など幅広く研究があるそうである。昨年度まで筑波大学附属高校に勤務されていた塚田先生とは大学時代の同級生だそうである。

 李白の『静夜思』の朗読から松岡氏の講義は始まった。朗読は訓読ではなく、中国語の発音で行われた。当然ながらこれまでの訓読とは違う趣が感じられ、新鮮であった。漢詩の授業で訓読・中国語双方の音の響きを味わうことの面白さを知った。例えば、杜甫『春望』の「国破れて」は中国語で「クッ パー」と発音し、音からまとまったものがほぐれていくようなイメージが湧いてくる。

 続いて漢詩の言葉のイメージをしっかりと捉えられているかという話に。『静夜思』の場面を絵で描くよう指示され、我々が書き終えてから松岡氏は『静夜思』の語釈についてお話を始められた。有名なものだが、『静夜思』の「床」は床ではなく寝台(中国で鑑定師が床は寝台とは限らず、椅子などの可能性もあると指摘し、中国で話題になったそうである)、「地」は地面ではなく床(中国語で地面は土地らしい)などの違いがある。この他に「山」や「海」という語も中国語と日本語で支持する対象がやや異なることを指摘し、漢詩における漢字を日本語のままに捉えると、元々漢詩が持つイメージと離れてしまうということを教示された。言葉のイメージを捉えているかを知るために絵を描かせることも有効であるとおっしゃっていた。私も書いてみて、漢字の持つイメージの相違が分かった。

 漢詩の翻訳については押韻の問題(阿倍仲麻呂の「天の原」を漢詩に翻訳したものが石碑に書かれている、英語の詩も押韻があり、それを優先し原作の漢詩と順番が入れ替わっているものもあるなど)、漢詩の言葉やイメージをどのように反映するかを中心にお話しされていた。

 考古との関連でいえば、当時のものや言葉を調べることで漢詩のイメージに近づけることをお話しされていた。

 漢文教育については、私立高校非常勤講師時代に生徒に漢字の書き取りを徹底的にやらせた結果後に生徒からあの時の学びが役に立ったと声をかけてもらえたこと、自分の息子に『論語』等の素読・視写をやらせたところ非常に国語力がついた(東大を卒業され、現在は助教授。論文の論理はしっかりしているが、言いまわしがやや古臭いそう。祖父にやってもらうことが重要。)ことなどをお話をなさっていた。

 最後に、学習者にどのように興味を持ってもらうかは教える側がどう興味を持って取り組むかと表裏一体であること、小さな疑問素朴な疑問を大事にすることが重要であるとして講義を締めくくった。教育一般通じる指摘である。

 

実践報告~主体的で深い学びの試み~(加藤和江先生)

 表題の通り「主体的で深い学び」を目指した過去の実践の紹介が主たる内容であった。表題には「対話的」の語が欠落しているが、当該報告は「対話的」な要素を含んでおり学ぶべきところが多かった。

 一つ目に紹介された実践「一 項王の「笑」はどのような笑いか。」は多くの教科書に掲載されている『史記項羽本紀「項王の最後」を扱ったものである。「項王笑曰」の部分の「笑」の解釈は指導書及び研究者の間でも解釈が割れているそうである。それを踏まえた上で、生徒はどのように考えるか本文を根拠に考えさせたいというのが実践の趣旨である。項羽が「笑」って言った内容について①3回の反語表現から複雑な心情が読み取れること②死を覚悟していることは踏まえさせ、「苦笑い」「微笑」「寂しい笑い」「大笑い」(先行研究を参照しこの4つにしたそう)の4グループに分かれ(自身の選択による)、ワークシートを記入して意見交換し、グループの代表者が発表するといった学習の流れである。この学習の成果は終始意欲的に取り組めたこと、項羽の心情理解という点で生徒がおおむね狙いを達成できたこと、課題は根拠の探し出し方や記述の仕方だそうである。解釈の揺れは個展においては当然起こりうることであり、それをいかに教室で扱うかという点で当該実践は示唆的だった。課題に関しては、単元同士の有機的・螺旋的なつながりを持たせることで解決し得るだろう。

 二つ目の実践「二、「雑説」から意見文へ」は先生が20年前に9割以上の生徒が大学に進学しない高校で行った実践である。「雑説」の論旨の明快さを捉え、意見文の執筆に生かすという趣旨の実践と言える。先生は教科書の考える「雑説」の構成を否定し、「世有伯楽~千里称也」を第一段落(主張の提示)、「馬之千里~天下無馬」を第二段落(具体例・反論からなる論証(樺島忠夫『文章構成法』の定義による))「嗚呼其真~不知馬也」を第三段落(主張)で構成される双括型であると分析する。学習の流れは以下の通り。

1次:「雑説」の読み、書き下し文、口語訳の確認(8時間)

2次:「雑説」の主題を確認し、文章の構成を考える。(要旨・構成・比喩・主張をワークシートを活用しつつ確認)(2時間)

3次:意見文の書き方を「雑説」を例に学ぶ。自分の書く意見文の問いと答えを設定し、取材(友人・親・教師等の意見を聞く。その際必ず反対意見が出るように)を行う。

4次:構成を考え、双括型の意見文を実際に書いて(「雑説」の構成を反映した枠組み指定作文)、推敲、清書する。(3次と合わせて6時間)

当該実践の成果は取材活動が活発に行えたこと、双括型の意見文が書けるようになったこと、課題は「雑説」そのものの理解が進んだか確認できないことだそうである。構成指導の方法として、①読みにおいて、結論探し→他の部分との関係や展開の仕方を考えさせるという学習を行うこと②韓愈・柳宗元の文章の比較などが有効であるそうだ。

 現代文・古文・漢文という枠組みが解体される可能性がある新学習指導要領において、こうした学習は価値がある。先生も林四郎氏の「漢文は日本文章の教師」という言葉を紹介し、漢文の持つ論理性について指摘されていた。この辺に関してはレポートで利用したこの本をいま一度読んで検討したい。

 

 質疑においては、「雑説」の扱い方の揺れ(「古典B」が多いそうだが、「国語総合」に置いて扱っているものも見られるという。)、「雑説」の持つ教材価値(論理性の問題、そもそも教科書における「雑説」は4つある説のうちの一つで「馬説」と呼ばれるものであることなど)が話題になった。

 

考えさせられることが多く、初日ながら参加してよかったと思える内容だった。

 また学会で大御所の方とお話しするサプライズ。いつかこの学会で発表の場を持たせてもらえるよう努めねば。そのためにも今日もお勉強である。

 

祝アクセス数1000回越え!今更ながら自己紹介

 ありがたいことに当ブログのアクセス数が4桁を超えた。拡散して下さる方や拙い内容ながらも興味を持って読んで下さる方々のおかげである。今回は当ブログの執筆者がどのような輩かを知っていただきたく思い、自己紹介させて頂くこととした。テレビを見ながらつらつらと書いていこうと思う。

 

「虎哲」という名前の由来

 前アカウント名が本名からきていてなおかつ特定しやすいこともあり変更。

「母校国語科の座を「虎」視眈々狙いつつ、「哲」学者のように日々探究する国語科教員」を目指して。

 

経歴

 千葉県浦安市出身。東京大学教育学部附属中等教育学校卒業、首都圏?国公立大学教育学部国語専修卒業。学士(教育学)。同大学大学院教育学研究科修士課程に在学し、探究に求められるスキル・態度とそれを国語科の学習にどのように組み込むかを探究中。

 

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来年度から私立大学付属中高一貫校教諭として教壇に立つ予定。

 

所属学会・研究会(2019年度)

日本国語教育学会及びその支部である南部国語の会(浦和)

全国大学国語教育学会(秋に自由研究発表デビュー)

全国漢文教育学会

国語教育史学会

大村はま記念国語教育の会

甲斐利恵子先生経由で繋がった青年国語研究会にも顔を出して勉強させて頂いている。

 

以下金銭面の余裕が出来たら所属したい学会。

読書学会

日本文学協会(国語教育部会)

 

スポーツ歴

 中高時代は軟式野球部に所属。ポジションはライトだったが守備力や野球脳の不足によりもっぱら補欠。大会でスタメン、タイムリーヒットを打つ等の野球の楽しさや醍醐味も経験。

 大学時代は空手部に所属。選手としてはパッとしなかったが、一応初段で黒帯所持。新人戦型優秀賞、大会の組手で一本取る等の瞬間は輝いていたかもしれない。

 さほど運動神経が良いわけではないが、体を動かすことは好きであり、初対面で確実に「なんかスポーツやってたでしょ?」と聞かれるTHE体育会人間。

 

好きなもの・こと

国語・・・評論や文学、古典等文種を問わず文章を読むこと、それらを基に自分なりに色々と考えて書くこと、人と話す、とりわけライフ・ヒストリーを聞くことが好きである。創意工夫の余地が多くあることが国語科の難しさであり、魅力でもあると思う。(現場に出てからもこの考えを維持できるだろうか)

読書・・・主に好んで読むのは新書だが、最近は国語科教育に関わる専門書の類を読むことが多い。いわゆる純文学や小説を手に取ることは稀だが嫌いではない。読む機会を増やしたい。

野球や空手・・・スポーツ歴参照。野球は見ることも好きであり、小4頃から阪神タイガースのファン。(巨人側で人生初の観戦をしたが、その対戦相手である阪神の強さ、縦縞のかっこよさに魅了されいつの間にかそちらを応援していたのがきっかけ。)

ディズニー・・・出身地や実家などの地理的な要因もあろうが、生まれたころから現在に至るまでディズニー愛がわが身に宿っている。ディズニーランド・シーは勿論キャラクターや映画・アニメも大好きである。8/27にはディズニーアカデミーを体験予定。最も好きな作品は「美女と野獣」で、単元化を画策しており、DIE(Disney In Educationの略)の先駆者になるという野望がある。

カラオケ・・・ストレス発散にうってつけ。上手くはないが、音痴でもない(はず)。

スキマスイッチ・backnumber・スピッツ・・・いずれも友人きっかけで聞くようになる。心に響く高音や歌詞という点で共通しているような。

Twice・・・好きになった経緯が少し変わっている。教育実習前に人の顔と名前を一致させる(結構苦手である。教師向いてる?)特訓として、youtubeで彼女らのMVを見ていたら単純接触効果でじわじわ好きになる。当然ながら、現在は9人全員の顔と名前も一致している。一番好きなメンバーはジョンヨンだが、ナヨンもアツい。

板垣退助・・・何を隠そう私の先祖である。私は彼の来孫にあたる。通りで自由とフランスが好きなはずである。

 

興味のある研究領域

 現在の研究に関しては経歴を参照。酒井雅子先生の研究をベースとして、書くことの実践の掘り下げや教科書から見る教育史的検討、現在探究を積極的に行っている学校の国語科の先生方へのアンケートなどが主な内容かなと。

修士課程に在籍中にこれら全て手を付けられると思えないがこれらの素地を築いておきたい。ゆるゆると実践の中でこんなことが出来たらなぁと。

 なお、次期学習指導要領新設教科『言語文化』に資するであろう研究としてこんなものもある。

古文教育に資する,コーパスを用いた教材の開発と学習指導法の研究 | 国立国語研究所

勉強のために以下にも参加予定である。

pj.ninjal.ac.jp

 

将来の夢

 母校である東京大学教育学部附属中等教育学校に勤務し、修士課程で行った研究を理論と実践双方を備えたものにすることである。そこで諸先生方のように授業の公開や学会での研究発表、単著の刊行や教科書編集に関与するなど、様々な面で国語科教育の発展に貢献したい。大風呂敷を広げているが、無論そのための苦労は厭わないつもりである。そのために、修士課程での研究の充実や教員採用試験(来年度東京都及び中高一貫校の私立で検討)という高いハードルをパス乗り越えなければ・・・。

→私立大学付属中高一貫校に絞った無謀ともいえる就活は無事終了。当面の問題は修士論文

いつになることやら、そして上記のうち一つでもかなうことやら。どうか成長の途上を温かく見守ってください。

 

第三項理論が拓く文学教育とは

日文協は変わりつつある組織であるかもしれない

 一介の院生ごときが生意気であるが、正直な話、日文協に対して良い印象を持っていなかった。

当該論文は以下である。(「日本文学」に十年前に書かれた論文である。)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/8/57_KJ00009522009/_pdf/-char/ja

 しかし、昨日今日と研究会に参加させていただく中で上記のような負の側面をひとまず看過することにした。というのも、国語教育と文学研究との交差が果たされるうえで日文協が鍵を握っているのではないかと思うようになったからである。

 

 

 近代文学演習で大いに参考にさせてもらったこちらの本も日文協の方々の著作である。

 

高校分科会での衝撃

 当該ツイートにおける「突然指された」とは全体協議の沈黙の中で司会の方に発言を求められたということである。(言葉足らず)これ以前に、発表者の方に対して第三項理論や機能としての語り手ありきでテクストに向かってはいけない、叙述に即して仕掛けを紐解く中で機能としての語り手の存在が見つけられるのだとフロアの方が滔々と諭していた。そうした話の流れを追うのに必死だったので、ひとまず今までの話はこういうことですか?という素人全開の質問を発表者及びフロアの方に投げ返してみた。その質問に丁寧に解答してくださったのが田中実氏だったのである。以下にその粗雑な要約を示す。

・叙述に即して読むとは叙述の中で構造性を解明すること。

・小説は構造化されている。プロット(構造・時系列でない)をストーリー(時系列)に整理し、How?からWhy?を考える。(例えば、どのように書かれて語られているかから何故このように書いた語られたのかを考える)

・構造分析テクスト論の生じた経緯とそれらと第三項理論との差異(他者そのものの想定と自己倒壊の有無)

・解釈しようと働きかける、理論を当てはめようとして読むのではなく、叙述に身をゆだねるようにして読む。(非常に難しい)

 読みに対するアプローチ方法を知ってしまうと、どうしてもそれを適用して読もうとしてしまう。そうではなく、叙述を徹底的に見ていくことによってこそ構造を解き明かすことにつながるという。やはり、小森陽一氏のこの論文が思い起こされる。

成城大学リポジトリ

 

全体会での協議

 それぞれの分科会での問題意識は重なる部分が多かった。それをあえて一言で言うならば教師の読みと学習者の読みとの関係についてである。以下に議論された発言内容を箇条書きで示す。

・「教師の読み」と「子供の読み」とに優劣も区別もない。(そもそも読みに正解はないから)

・分析的に装置を見ていくことが子供の読みの切実感を損なうのでは。

・価値の物差しを持ったまま(意味づけ・ラベリングは近代以降の問題)では読むことの〈価値〉の創造に至らないのでは。

・教師の仕事は小説の仕掛けを仕掛けとして機能させること。しかし、必ずしも「仕掛けを学んでから」とはならない。

・仕掛けに気付けるかは世界の見方と関わる。これは訓練しないと見えてこないのでは。(上の考えとのジレンマがある。しかし、どちらの考えも頷ける)

・装置の存在に子供は直感的に気付く。教師の読みはこれを見とれるかに大きく関わる。

・加えて教師の読み以外の子供の読みをいかに拾えるかが鍵となる。

 こうした議論からも見えてくるように、日文協は正解(と教師が考える)の読みへと強引に引っ張るようなありかたを望んでいない。しかし、「なんでもあり」に陥らないようにするために教師自身がしっかりとした読みを持っていることが求められることについてはおそらく全体として共有しているのであろう。また、全てを第三項理論で片づけるのではなく、正解はないとしつつもより良い読みをしていくうえで何が必要かを探究している学会であるといえる。第三項理論が持つ価値について、昨日購入した日本文学(2018年8月号)の田中実氏や難波博孝氏の論文を読み検討したい。

 →以下の本も素晴らしいものだと聞いている。是非今年度中に読みたい。

 

 

 

第三項理論と文学の探究

 昨日は日本文学協会国語教育部会夏期研究集会に参加させて頂いた。

http://nihonbungaku.server-shared.com/whatsnew/2018_8kakikennkyuu-rink.html

文学研究を専門としない私でもそれなりにわかる内容であり、かつ、なるほどと感じさせらえることも多々ある有意義な時間であった。

 

第三項理論とは

 大胆に言えば、主体―客体、主体―主体の捉えた客体という二項で考えるのではなく、主体―主体の捉えた客体(捉えられる対象)―客体(主体がとらえきれないもの)という三項で考えよということであろう。この場合は客体が〈第三項〉にあたる。読書行為に即していえば、読者―テクスト(読みの際に読者に現象する解釈・日文協でいうところの〈本文〉(ほんもん))ー本・文章そのもの(日文協でいうところの〈原文〉)ということになる。おそらく、バルトのテクスト論との差異は、第三項理論がテクストを読む行為は「還元不可能な複数性」にとどまらず、自身を読むことにつながるということにあるらしい。(断定的な言い方を避けるのはバルトのテクスト論や第三項理論の詳細を理解しきれていないからである)

 〈世界像の転換〉という考え方は文学を読む意味の一つとして面白いと思った。この語の意味は

①これまでの自身のそれとは異なる、ものの見方・考え方・感じ方を知ること。

②そこで得られた(掴めた)ものの見方・考え方・感じ方をを物事の多面的な見方の一例に過ぎないとし、唯一絶対のものであると過信しないこと。

③物事の捉え方について、唯一絶対のものがないとしながらもより良い(より善い)ものの見方・考え方・感じ方を探求し続けていくこと。

であると説明されていた。第三項を想定しなければ主体がとらえたものが正解となるなんでもありな状態になりかねないとして、第三項理論を重視しているようである。

 

文学の探究

 日文協は正解到達主義を明確に否定し、またそれに対抗する形で現れた「ナンデモアリ」な授業に陥ることも否定する。私も、文学の読みに正解はないが、根拠を持たない読みを何でも許容することもまた読みの持つ面白さ(私見である)を蹂躙するに等しいと考える。これらの問題を超えるために彼らが重視する〈語り〉や〈機能としての語り〉というものに関しては私の力不足であまり理解が出来なかったが、彼ら自身が教室で〈世界像の転換〉を導こうとする様は実践報告から伝わってきた。彼らの実践報告によって、昨年度の日本国語教育学会全国大会の一日目において、「深い学び」における学習者の学びの深さが指導者の教材理解の深さと密接に関わっているということを聞いたのを思い出した。教材理解のみならず、生徒理解や指導事項についても同様のことが言えるのではなかろうか。ともかく、探究と文学の相性の良さは、IB「文学」の実践や酒井雅子先生など様々な人の論じるところである。

→酒井雅子先生の著作は以下。

  文学教材の価値として、学習者が探究的に読むこと、それを通して自己と向き合うことがあるのではないか。こうした価値をうまく実践に反映させるために私自身が探究していく必要があるのだろう。

  本日も9時から分科会・全体会・講演がある。しっかりと学びたい。

 

教室の読みにおける進度の問題

発端はこのツイート。

勿論、はこせんさんは当該ツイートの『進度・効率を優先して、何を生徒が学んだかを見ていない』教師ではないだろう。しかし、その1行の学びがどのようなものであったかを度外視して『高校国語の授業として相応しいのかなという疑問は持つべきだ』と断ずるのはあまりに早計と言わざるを得ない。件の『大学時代の同期』が授業の進度のみを是として、仮に生徒が「この一行についてよく考えたい」と言ったことを契機として行われた授業を笑い話としているならば、問題の根は深い。

あすこま先生の言う『伝説的な漢文の先生』も進度という物差しのみで測るなら、教師失格かもしれない。しかし、『急遽の代行』によって多くの生徒の漢字に対する関心が少しでも高まったことを考えれば、一概に授業を断じることは滑稽である。

こうした先生方の考え方は基本的に私の指導観と合致する。

教科書における『こころ』の扱われ方に関する問題は小森陽一氏の以下の本に端的に示されている。

 

 9年前の本であるが現状としてここに示された問題は解決されたと言い難いことを大学院の授業の発表において明らかにした。『こころ』に関しては思い入れのある教材なのでいずれブログで私見を論じたい。

教室の読みにおける進度の問題としてテストとの関係も挙げられる。

この現状が授業の「効率化」を促しているのではないか。ある高校生が授業内容を基にテスト勉強したら全く違う問題が出てきて今までの授業は何だったのかと思ったという話を聞いた。

授業は違うのにテストは同じというのは、生徒の混乱や「授業を受けても無駄だ」という無力感につながりかねない。学校外では違う教科書、違う授業、違うテストで行われているのである。ある程度の同意が図れれば、テストや評価までそろえる必要があろうかとも思うのである。

何はともあれ

一堂に会しているわけではないが、考えを交し合える。ここにSNSの良さがあるように感じるこの頃である。